太閤秀吉が死んだ後の豊臣家の行く末を、一番心配していたのは石田三成である。
その三成が4万石に出世した際、半分の2万石で雇ったのが島左近で、「君臣の禄が同じとは昔から聞いたことがない」と、秀吉をもうならせた。
左近はそれほどの逸材で、「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と俗謡にうたわれ、三成の参謀・軍師として活躍した。
だがその前半生は不明で、出身地も大和、近江、尾張、対馬と様々な説がある。その中で有力なのが大和説で、左近の先祖嶋氏は平群谷(奈良県生駒郡平群町)の国人で、興福寺の一乗院坊人(下級の社僧)になったとする。その子孫の左近ははじめ筒井順慶に仕えたが、順慶の死後に筒井家を去って、三成にスカウトされることになる。
対馬出身説もまた捨てきれない。「古今武家盛衰記」は「石田一族従臣家傳」の中で「三成が長臣島左近允勝猛は、対馬の人。少年より兵を好んで智勇あり。良将に仕へ、武運を開かんと思へり。時に天正の初、大坂へ来り、太閤に仕へん事を欲し、縁を覓め願ふと雖も、事果たさず。其の頃三成、寵臣の奉行なれば、是れに便り願はんとす」と記す。
左近の謎はその出身地だけでなく、関ケ原合戦で華々しく戦い重傷を負う中で、忽然と姿を消し、死んだのか、生きて戦場を脱出したか不明なことである。
関ケ原合戦の敗軍の中で、その戦いぶりを称賛されてきたのは、大谷吉継と島左近である。
左近の勇士に震え上がったのは前面の敵となった黒田長政の軍勢だった。だが鬼神もあざむくという左近の猛攻に、黒田の将兵は左近がどんな装いで、甲冑を装着していたか、誰一人思い出せなかった。それほどの恐怖を皆が味わったのだ。その窮地で黒田の鉄砲隊が横合い高所から50挺の鉄砲を乱射し、左近に銃弾が命中した。
「関ケ原合戦図屛風」には、負傷した左近が二人の将兵に抱えられ退却する様子が描かれる。だが陣地に戻って傷の手当てをすると、再び先陣に立とうと駒を走らせ、そのまま姿が見えなくなったともいう。
左近は関ケ原で死んだとする説もある。黒田とともに石田方を攻めた加藤嘉明隊の先鋒・戸川逵安の軍勢が左近を討ち取ったと「戸川記」は記し、その時に左近がつけていた五十二間の筋兜(久能山東照宮に奉納)を持ち帰った。しかしそれなら、家康の首実検に持ち込まれたはずだが、家康の前に左近の首が置かれることはなかったのが不思議である。
「古今武家盛衰記」は、行動をともにしていた18歳の息子・龍吉郎が敵に突き伏せられて組負けし、ついに首を取られたのも夢にも知らず、左近は近づく敵を追い散らし、西国へ落ちて行ったという。これに対して「石田軍記」は、まざまざと愛子の討たれるのを援けようと思うる心もなく、わざと知らぬふりをして落ちて行ったと非難している。
関ケ原での左近の最期は謎をはらむ。何しろ戦場から左近の遺骸は見つからず、これにより生存伝説が数多く語られるようになる。
更新:12月13日 00:05