左近は三成の重臣として佐和山城におり、麓の清凉寺は左近の屋敷跡とされる。
それだけに近江の地理には明るい。
滋賀県長浜市余呉町の北辺に、美濃(岐阜県)から越境した人々が住みついた奥川並という集落があった。奥川並は昭和44年(1969)に住民が集団移住して廃村となるほどの雪深い山奥だった。伝承によればここに左近は逃げ込んだという。最初に潜んだ洞窟を殿隠しといい、島林の地名も残る。島屋敷跡もある。だがここが関ケ原後に井伊領になったため、危険を感じ去った。その時に妻子を伴っており、現在の静岡県浜松市天竜区に移って隠れ住み、今も子孫がいるという。
余呉町の伝承だけでなく、琵琶湖に浮かぶ竹生島に逃れたという話もある。さらに湖北の長浜のあたりに身を隠し、農民の世話になり、傷ついた体を癒したとの話などもある。
また別の伝承によると、その左近が京都に出てきて、はじめは銀閣寺のあたりに住んだという。京女と結婚もしたようだ。しばらくして立本寺の塔頭・教法院の寺男(僧侶とも)となった。
その左近の墓が、京都市上京区の立本寺の境外墓地にある。角型の墓石には「妙法院殿嶋左近源友之大神儀 寛永九壬申年(1632)六月二十六日歿」とあり、分厚い台座には「土葬」と刻まれる。
墓の管理人によれば、400~500ある墓はすべて骨壺が入る火葬墓だが、唯一左近の墓だけが土葬墓だといい、東京・神戸・広島に住む子孫の方が今もお参りに来るという。
立本寺は日蓮宗一致派の本山で具足山と号する。日蓮の弟子・日像の戧建した妙顕寺を起源とするが、数々の法難にあって寺名と場所を変えて、立本寺と号するようになり、天文13年(1544)に新町三条に落ち着いた。だが秀吉の京都改造計画で寺町今出川(京阪出町柳駅から西へ加茂川を渡ってすぐ)に移った。
左近が教法院の寺男となって住み着いたのはこの場所であり︑関ケ原合戦から32年後に死んだのもこの場所ということになる。
そしてこの墓が本当に左近のものであれば、彼は93歳で死んだことになる。戦国時代でも90歳を超えて生きた人もいるが、ごく稀である。ただし左近の年齢は、「和州諸将軍傳」のみが、左近を天文9年(1540)生まれと伝えるだけである。
これをもとに起算したとみられる「名将言行録」が、「慶長五年(1600)九月十五日戦死 六十一」と記す以外、左近の年齢を記したものはなく、「和州諸将軍傳」が正しいかどうかも分からない。左近の年齢がもっと下だったことも考えられる。
立本寺は宝永5年(1708)の大火で焼けたため、現在地に塔頭とともに引っ越して再建された。当然、墓も移転した。
現在、教法院には左近の位牌も過去帳もある。位牌・過去帳の法号は墓石と少し違っていて、「妙法院殿前拾遺鬼玉勇施勝猛大神儀」とある。左近の生存説を物語る最強の寺が立本寺といえる。
※本記事は、楠戸義昭著『戦国武将「お墓」でわかる意外な真実』(PHP文庫)より、一部を抜粋編集したものです。
更新:11月23日 00:05