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西郷隆盛はなぜ、西南戦争に敗れたのか

2018年08月06日 公開
2023年01月19日 更新

瀧澤中(作家/政治史研究家)

西郷隆盛
 

西郷の生き様を真に活かすには

西郷隆盛を尊崇する政治家は多い。その中の一人、犬養毅がこんなことを述べている。

「南洲先生(西郷隆盛)が月照上人と海に入られたまでの先生は学び得らるるが、その以後の先生は人間離れがしていて、とても学べぬ」(山田準『南洲百話』)

西郷は安政5年(1858)、勤皇僧・月照上人を幕府の追及から逃すため薩摩につれてきたが匿いきれず、共に錦江湾で入水自殺を図った。犬養毅は、このころまでの西郷については理解ができる、しかしそれ以後の西郷は偉大すぎて、学び取ることもできない、と言うのである。

西郷のことを、「人間離れ」した存在である、とまで表現する。

筆者は、西郷のすべてが驚異的・肯定的に評価されることへの危惧を抱く。

人は、好意を持つ人物について、失敗をも肯定的に評価しがちである。

好きな人物が失敗しても、「あれは仕方がなかった」「あれこそが彼(彼女)の潔さだ」といった、相手を慮る評価をする。

かく言う筆者も、西郷隆盛のお墓に詣でたし、西郷の書や肖像画も大切に持っている。西郷の行動は、失敗を含めて「何か理由があるはずだ」「たとえ敗れても間違いではない」と考えたくなる。

だが生涯、終始一貫過ちを犯したことのない人物など存在しない。

まして、西郷ほど大きな歴史的偉業を成し遂げた人物であれば、さまざまな場面でさまざまな要素を考慮し決断するから、判断や行動を誤ることがある。

その誤りを正しく理解しないと、後世、西郷の生き様を真に活かすことができなくなる。

歴史を学ぶ醍醐味の一つは、西郷のような偉人ですら失敗したことを知る、ということでもある。

西郷の失敗とは何であったのか。特に「政治力」という観点から見ていきたい。
 

理解しがたい失策

以下に大きく分かれよう。

第一は、明治維新前。

最初、西郷は薩摩藩内で政治力を掌握しきれず、藩の最高権力者(島津久光)と敵対し、何度も島流しに遭っている。これにより、西郷の政治目的達成が大幅に遅れた(拙著『「幕末大名」失敗の研究』〈PHP文庫〉を参照ありたい)。

第二は、明治維新後。

新政府で最高の地位に上り詰めながら、その権力を放棄して薩摩に帰国したこと。

大久保利通との対立で、大久保派を圧倒するような政治工作を行わず、西郷は政治闘争に敗れた。西郷派に属した人々は、西郷に従って中央政府を去る。

これにより西郷の中央での政治権力はほとんどなくなり、西郷の政治目的は中央政府では果たされないことが確定した。

第三に、西南戦争である。

西南戦争は明治10年(1877)、すなわち、西郷が征韓論に敗れて新政府から下野し鹿児島に帰国した4年後、政府に対して不平を持つ薩摩士族たちが立ち上がり、西郷がその首領に担がれて戦った戦争である。「政府へ尋問の廉有此」(政府に問いただすことがある)というのが、西郷軍の掲げた趣意書であった(以後、便宜上、西南戦争で西郷隆盛の率いた勢力を「西郷軍」と呼称する)。

西郷はここで、明らかな失敗をしている。

多く指摘される点は、なぜ西郷軍は船を利用して大挙大阪、もしくは東京に上陸を果たさなかったのか、ということである。

西郷軍を実質的に取り仕切った桐野利秋が、政府軍を「寄せ集めの百姓兵」と侮蔑し、簡単に蹴散らすことができると増長したのはたしかだが、それは戦術上の問題である。「政府に問いただす」、平たく言えば是が非でも東京の大久保政権を屈服させるというのが目的ならば、東京急襲こそが最も効果的なはずであった。

しかし、なぜか西郷軍は「堂々の進軍」という形にこだわって九州をひたすら北上し、開戦から半年後の8月、和田越の戦いでほぼ敗北が決まった。

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