伊達と上杉の宿敵「最上義光」...梟雄と語られてきた戦国大名の知られざる素顔
伊達と上杉の宿敵「最上義光」...梟雄と語られてきた戦国大名の知られざる素顔
殺戮をものともしない梟雄。謀略を巡らす、陰険な「羽州の狐」。悪逆なイメージでばかり語られてきたが、それは、実像とは異なるものである。本当はどのような人物だったのか──。 ※本稿は、『歴史街道』2019年5月号より...
歴史街道 » #伊達政宗の記事一覧
殺戮をものともしない梟雄。謀略を巡らす、陰険な「羽州の狐」。悪逆なイメージでばかり語られてきたが、それは、実像とは異なるものである。本当はどのような人物だったのか──。 ※本稿は、『歴史街道』2019年5月号より...
「眼中の光凄まじく、夜叉羅刹とも云うべし」──鬼神にもたとえられる佐竹義重だが、その人生はまさに戦いの連続だった。関東制覇を目論む北条と幾度も戦い、奥州で急成長する伊達とも干戈を交える。そして、豊臣から徳川へ天...
関ケ原合戦における岩崎一揆は、"失策"とみられがちだ。 のちに、一揆を支援した伊達政宗が、徳川家康から 「百万石のお墨付き」を反古にされたからである。 しかし、一揆勢を率いた和賀忠親の動機と、東北の利害関...
角館武家屋敷 戦国武将・蘆名義広の歩んだ道は、まさに流転とも言えるものだった。名門・佐竹氏に生まれ、白川氏の養嗣子となった後、会津・蘆名氏の家督を継ぎ、伊達政宗に敗れる……。しかし彼は、行き着いた...
歴史もののテレビドラマが果たしている役割は大きい。ことに大河ドラマには教科書にはない物語性があり、歴史知識を深めることができる。 しかし、ドラマチックな合戦や名場面にはフィクションが多く含まれており、...
小田原参陣前夜、政宗は弟・小次郎を愛する母・義姫に毒を盛られ、やむを得ず、小次郎とその傅役を殺害したとされる。ところが、それを記した伊達家正史と矛盾する史料や記録が残されている。一体、親子3人の間に、何が...
伊達政宗生誕伝説と父・輝宗の英才教育 「常に隻眼を恥じ、ややもすれば目を隠そうとする」 伊達家の公式記録に書かれた、幼き頃の政宗の様子である。 人に恥じらいを見せる政宗に対し、近臣...
白石城三階櫓(宮城県白石市) 白石城は別名、益岡城、桝岡城。仙台藩の南の要衝に位置し、関ヶ原の戦いの後、明治維新までの260余年、伊達家の重臣片倉氏の居城であった。 ご学友型ナンバー2 ...
「みちのく関ケ原」は、最上のひとり勝ちで終わった。しかし、そののちの太平の世で、最上、上杉、伊達の三家はどうなったのだろう。 最上 お家騒動の果てに 24万石だった最上家は、関ケ原の戦い...
最上義光が生まれる 〜今日は何の日 天文15年1月1日 天文15年1月1日(1546年2月1日)、最上義光が生まれました。伊達政宗の伯父にあたる戦国武将で、出羽最上家を57万石の大大名にまで拡大しました。その一...
今日は何の日 元和9年7月17日 伊達政宗の生母・義姫が没 元和9年7月17日(1623年8月13日)、義姫(保春院)が没しました。伊達輝宗の正室で、最上義光の妹、伊達政宗の生母として知られます。 義姫は天文1...
支倉常長像(石巻市月浦) 慶長18年(1613)、支倉常長はサン・ファン・バウティスタ号でローマを目指し、月ノ浦を出帆した。 今日は何の日 元和8年7月1日 伊達政宗の慶長遣欧使節正使、支倉常長...
今日は何の日 天正17年6月5日 伊達政宗が摺上原の戦いで葦名義広を破る 天正17年6月5日(1589年7月17日)、摺上原の戦いが行なわれました。伊達政宗が蘆名義広を破り、南奥州の覇者となったことで知られます。 ...
今日は何の日 寛永13年5月24日 独眼竜・伊達政宗が没 寛永13年5月24日(1636年6月27日)、伊達政宗が他界しました。奥州の覇者、独眼竜の異名であまりにも有名な戦国武将です。 「仁に過ぐれば弱く...
今月のお題は「名言」。編集部女子が好きな言葉は、室町時代の歌謡集『閑吟抄(かんぎんしょう】』に収められた一節 「何しょうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂え」 。どうせ一生は夢のようなものなのだから、まじめくさ...
仙台で伊達政宗の廟所「瑞鳳殿」を訪ねた際、その荘厳にして極彩色に満ちた廟の雰囲気に、思わず息を呑みました。まさに戦国随一の人物にふさわしいオーラを感じました。 感動しながら、ふと視線を廟の脇に移すと、...
少し前の話で恐縮ですが、今年の夏に仙台を訪ねた時の紀行話を書かせていただきたいと思います。 仙台は仕事で何度か訪れたことはありましたが、史跡をゆっくりと巡る機会に恵まれませんでした。今回は、東...
『歴史街道』2012年8月号 [特集]東北3県の夏祭りをゆく より その規模と絢爛さで日本一といわれる仙台七夕まつり。仙台藩祖・伊達政宗より大切にされている七夕の行事には、田の神に豊作を祈り、飢饉の惨禍を遠ざける意...
派手で奇抜な衣装を身に纏い、傍若無人な振舞いをする者が、鎌倉末期から南北朝の動乱期に登場する。人は彼らを「ばさら者」と呼んだ。 庶民が喝采を贈った彼らはなぜ現われ、また何を自ら表現していたのか。 《...