『歴史街道』2012年8月号[特集]東北3県の夏祭りをゆく より
その規模と絢爛さで日本一といわれる仙台七夕まつり。仙台藩祖・伊達政宗より大切にされている七夕の行事には、田の神に豊作を祈り、飢饉の惨禍を遠ざける意味があった。そして今、七夕の彩りは復興への力強いエールとなっている。
昨年3月の東日本大震災は、改めて人知を超えた自然の脅威をまざまざと見せつけた。
しかし、それにもめげず仙台七夕まつりは例年通り開催され、仙台そして東北の人たちに自信と誇りと勇気を与えた。恒例の仙台七夕まつり開催の決断は、大きな被害を受けた仙台復興への力強いメッセージとして全国へ発信され、多くの人々から支援を受ける原動力となり、被災地の人々への励ましとなったのである。震災直後ということもあり、恒例の星の宵まつりは中止されたが、市内中心部の市民広場は「仙台七夕おまつり広場」として、さまざまな催しが行なわれ、復興へ向けたダイナミックな力強さを印象づけた。
市内定禅寺通りでは、鹿児島県姶良〈あいら〉市の全長23メートルの日本一の竹に、世界から被災地復興への祈りを込めて贈られた2万5千枚の短冊や折鶴が飾られ、また京都市の円柱行灯が七夕の雰囲気を盛り上げた。一番町商店街と 「仙台七夕おまつり広場」を結ぶつなぎ横丁には、昭和54年(1979)に復活した京都祇園の綾傘鉾が展示され、駆けつけた祇園囃子が演奏されて雅な雰囲気を醸しだすなど、復興へ向けた新たな支援参加もあり見物客を魅了した。
おまつり広場以外にも、さまざまな催しが企画され彩りを添えた。仙台市内の小中学生一人ひとりが心を込めて折鶴でつくった「八万人の七夕飾り」も目を引いた。平成23年夏は震災直後の開催ということで175万人と低く見込んでいた観光客は203万人を超え、力強い復興への第一歩となったのである。大震災の打撃を受けながらも、仙台七夕の開催によって、多くの人々に再び生きる勇気と夢と希望を与えたのである。大震災から2年目の今年も8月5日の前夜祭の花火大会を皮切りに8月6日から8日にかけて、仙台七夕は暑い夏の東北に彩りを添え、訪れる人たちへの感謝と被災した人たちへの心強いエールを送ることだろう。
仙台七夕の由来は諸説あるが、古くから日本人が信奉してきた「田の神」に、中国から伝えられた星の物語と中国の習俗「乞巧奠〈きつこうでん〉」が結びつき、さらに時代の要請に応えながら豪華絢爛な仙台七夕になってきたものと考えられている。
仙台藩祖伊達政宗は慶長5年(1600)、仙台に入城するが、当時は相次ぐ戦で人心も田畑も荒れ果てていた。都にも引けをとらない国づくりを目指した政宗は、荒廃していた国や東北有数の神社・仏閣を、当時の文化の粋である桃山様式で再建した。これを見た人々は戦国の世の終わりを肌で感じ、国づくりに専念することができた。すたれ、あるいは忘れ去られていた古いしきたりや年中行事も復活しながら、人々は新しい生活のリズムを創り上げていった。
農耕民族としての日本人は自然の恵みを受け、時には自然の脅威を身近に感じながら、自分たちも大自然の一員であるという謙虚な気持ちで生活をしてきた。生きとし生けるものに限りない慈しみをもって接してきた。そうした日本人の生活は1年をサイクルとして見たとき、深く稲作文化に影響を受けている。いまは個別にとらえられがちな正月の行事、田植え、稲刈り、秋祭りなどはまさに、自然を相手に農業を営んできた人々の知恵の結集である。自然を相手とする農業は極めて科学的な生業であると同時に、技術の集積である。稲の出来・不出来は天候に左右され、時には人知を超えた大きな力を感じたことだろう。そこに神の存在を意識し、畏敬と感謝の気持ちで生活をしてきたのである。
瑞穂国日本においては、米の出来の善し悪しは神々にすがるしか手立てがなかった。旧暦の7月7日頃は、丁度稲が開花期に入るとともに、風水害や病害虫の襲いかかってくる季節でもある。「田の神」は万能の祖霊の変化したものと信じていた人々は、禊ぎをして心身を清め、祖霊を祭るお盆の行事に入ったと考えられている。これが農耕文化とともに始まった日本の七夕の起源である。
仙台七夕もそうした農耕儀礼に基づいた行事の一環としてスタートし、さらに時代のニーズに対応しながら、いまのような豪華絢爛な仙台七夕へと変遷してきたのである。
仙台藩祖政宗は歌人としても知られ、「七夕の一夜の契り浅からずとりかねしらす暁の空」など七夕に因んだ歌を8首残している。いずれも男女の愛を詠んだもので、星の伝説に関わるものである。政宗の時代の七夕は、日本固有の農耕儀礼に基づく素朴な風情あるものであったと推測される。始めは5色の願いの糸を垂らすだけの竹飾りから、商業経済が発達し、華美の風もみなぎってくる元禄時代頃になると、華やかな短冊をさげ、吹き流しをつけるようになってきたものと考えられている。
江戸時代の『仙台年中行事大意』(二世十返舎一九)には「七月七日。棚日祭。六日夜より、篠竹に色紙短冊の形を切て、歌をかき、又は、提灯をともし、七日の朝、評定川または支倉川、澱川へ流す」と記されている。6日の夕方から笹竹を飾り、姫星と彦星を祭って、手習い、手芸の上達を願い、農家では田の神の乗馬として七夕馬(藁馬)を作って屋根に上げるなどして、豊作を祖霊に祈ったと伝えられている。
ところが天明の飢饉(1782~1788)が、人々の生活を一変させた。仙台藩内の死者は25万人から30万人といわれ、人心は荒廃し人々の生活は困窮の極みに達した。仙台藩では疲弊した藩財政を立て直し、荒廃した人心を一変させることに腐心した。しかし農民は、豊かな恵みをもたらしてくれる「田の神」にすがるほかない。そこで七夕まつりが徐々に復活し、藩内いたるところで盛んに行なわれるようになった。しかし、明治維新を迎え、明治6年(1973)の新暦採用を境に、仙台七夕まつりは急速に衰えていった。
昭和3年(1928)、東北産業博覧会を契機に、仙台七夕の復活を図るため仙台商工会議所と仙台協賛会との共同開催として、「飾りつけコンクール」が催され仙台七夕が復活したが、戦争に突入し、中断され、昭和20年(1945)の仙台空襲で仙台の町は廃墟と化した。
しかし、それにもめげず昭和21年(1946)にささやかな七夕が行なわれ、翌22年(1947)の昭和天皇のご巡幸時5千本の竹飾りが七色のアーチを作って天皇陛下をお迎えした。この時、仙台が七夕の盛んな理由をご下問された郷土史家の故三原良吉は、仙台七夕が田の神を迎える行事であり、天明・天保の飢饉時には数十万の死者を出した悲惨な歴史を申し上げ、「このような惨禍をのがれ、豊作の保証と保護を田の神に祈ったことが、七夕を盛んにした理由である」とお答えし、陛下から温かい励ましのお言葉をいただいた。これ以降、仙台市内では各町内あげて七夕まつりを競った。しかし、高度経済成長の時代を経て、社会は大きく変化したが、いまもなお仙台市中心部では東北の夏を彩る一大イベントとして開催されている。
仙台七夕の前夜祭といえる催しが、8月5日仙台の広瀬川で開催される。1万数千発の花火が打ち上げられ夏の夜空を彩る。6日からの本祭りでは豪華絢爛な七夕飾りが掲出される。また、飾りつけ審査会が商店街毎に行なわれ、金、銀、銅の各賞が発表される。仙台駅から中央通り、一番町のアーケードと進むと、短冊飾りや七夕飾り作成の体験コーナーが催される「おまつり広場」へと辿ることができる。晴天のもと幾重にも重なり風にたなびく吹き流しを眺めながら、しばし童心にかえってみるのもよいのではないだろうか。これからも仙台七夕は新しい時代の要請に力強く応えながら、そこに住む人々そして訪れる人たちに優しく微笑み語りかけ、明日へ向けた力強い活力を与え続けてくれることだろう。
<仙台七夕まつり公式サイトはこちら>
更新:11月23日 00:05