天文15年1月1日(1546年2月1日)、最上義光が生まれました。伊達政宗の伯父にあたる戦国武将で、出羽最上家を57万石の大大名にまで拡大しました。その一方で、稀代の謀将のイメージがありますが、実像はどうであったのでしょうか。
義光は天文15年、最上家第10代当主・義守の長男に生まれました。通称、源五郎、二郎太郎。 最上氏はもともと足利氏の一族で、足利幕府三管領の斯波氏の分家にあたります。幕府の羽州探題を務める斯波氏を祖とする家柄で、山形城を本拠とし、幕府より最上屋形と称することを許されていました。
しかし9代義定の時代に、隣国米沢に本拠を置く伊達稙宗に攻められて、山形城を落とされてしまいます。以後、最上氏は伊達氏の傘下となり、大永2年(1522)に義定が没すると、庶流の中野氏から最上氏10代に就いたのが義守でした。義光の父です。しかし義守はいわば傀儡に過ぎず、実権は伊達氏から入った義定の未亡人が握っていました。
天文11年(1542)、伊達家で稙宗・晴宗父子の対立から天文の乱が起きると、義守は稙宗側について参戦し長谷堂城を奪還、伊達家からの独立性を高めました。しかし、乱そのものは晴宗側が勝利したため、以後も義守は伊達の支配に甘んじつつ、領土拡張を策すことになります。永禄3年(1560)、義光は15歳で元服。将軍足利義輝より徧諱を賜りました。同年3月、寒河江城攻めで初陣しますが、城の攻略には失敗。義守の領土拡張策もここに頓挫することになります。
その後、義光は父・義守と不仲になっていきました。伊達氏の支配から脱却する戦いを挑もうと訴える義光を、義守が疎んじ、一説には代わりに義光の弟・中野義時を寵愛するようになったからともいわれます。義光はやむなく山形城を出て、空き城となっていた高擶(たかだま)城に身を置き、「高擶小僧丸」と称していたといいます。しかし義光の訴えは伊達氏の抑圧に耐えていた家臣らの心に火をつけ、老臣・氏家尾張守が義守に諫言、義守は出家し、家督を義光に譲りました。元亀元年(1570)頃のことです。 ちなみにその6年前の永禄7年(1564)には、義光の妹・義姫が伊達輝宗に嫁いでおり、3年後に嫡男・梵天丸を生みました。後の伊達政宗です。
天正2年(1574)、伊達からの独立を志向し、周辺豪族にも強い態度に出る義光と、父・義守が再び対立。義守の背後には伊達輝宗がおり、また最上八楯(やつだて)と呼ばれる主だった国人も同調しました。しかし義光はこれを巧みに退け、義光優位で和議を締結、晴れて伊達からの独立を果たします。
以後、義光は出羽統一戦に邁進しました。この統一戦で義光は、親類や同族を容赦せず、冷酷無惨に根絶やしにかかったといわれてきましたが、事実はそうではなく、無益な殺生を避け、対抗勢力を屈服はさせても攻め滅ぼすことは避けました。このため、かつて敵対した相手も、戦後はよく心服したといいます。
天正6年(1578)には、伊達輝宗の支援を得て最上領に侵攻した上山満兼と戦い(柏木山の戦い)、2年後には満兼の家臣を調略して満兼を討たせ、上山城を奪いました。 天正12年(1584)、最上家の庶流で、宗家と拮抗する勢力を持つ天童頼久(頼澄)の舞鶴城を攻撃。しかし最上八楯の一人・延沢満延の奮戦で敗退すると、義光は満延の息子に自分の次女を嫁がせて親類とし、天童頼久の孤立を図って、城から逃亡させました。これによって最上八楯は崩壊、義光は最上郡全域を手中にします。
天正16年(1588)、伊達政宗が義光の義兄・大崎義隆を攻めると、義光は大崎に援軍を出して、伊達軍を破ります。義光の妹で政宗の母の義姫が、両軍の間に自分の駕籠を置かせて、停戦を斡旋したのはこの時のことでした。
天正18年(1590)には豊臣秀吉の小田原の陣に参戦。翌年、九戸政実の乱の鎮定に向かう羽柴秀次が山形城に立ち寄った際、義光の三女・駒姫の美貌に目をつけ、側室に求めました。義光は再三固辞しますが、やむなく駒姫を差し出すことになります。これが悲劇の始まりでした。 文禄4年(1595)、羽柴秀次が謀叛の嫌疑で切腹。秀次の妻妾もすべて京都三条河原で処刑され、その中にはまだ15歳の駒姫の姿もありました。駒姫は幼かったため上洛が遅れ、側室どころか秀次に会ってもいなかったともいわれます。寝食も忘れ悲嘆に暮れる義光に追い打ちをかけるように、義光にまで秀次事件の嫌疑がかけられました。幸い間もなく嫌疑は解かれましたが、この間に駒姫の母親も悲しみのうちに没し、義光の豊臣家を奉じる気持ちは消え失せます。以後、義光は徳川家康と親交を深めるとともに、駒姫の菩提を弔う専称寺を城下に移して篤く保護し、心中深く期するものが芽生えました。
慶長5年(1600)、関ケ原。義光が迷わず家康の東軍につくと、最上領内に西軍の直江兼続率いる上杉軍2万数千が侵攻してきます。最上勢は1万足らず。しかし義光は長谷堂城を拠点に迎え撃つことを決します。義光にとってこの戦いは、駒姫の弔い合戦でもありました。同じ東軍の伊達政宗は全くあてにできません。義光は民百姓にも声をかけ、領民と一丸となって上杉軍に徹底抗戦し、長谷堂城で十数日を持ちこたえます。そして関ケ原での西軍敗北の報が届いた9月30日、撤退を始めた上杉軍に義光は総反撃を開始しました。その時の義光の戦いぶりは凄まじく、最前線で陣頭指揮を執り、兜に銃弾を浴びても屈せず、刀の2倍の重さがある愛用の鉄製の指揮棒で、敵をなぎ倒したともいわれます。この義光の追撃に、さしもの直江も切腹を覚悟したほどで、上杉軍に見事勝利を収めました。
上杉軍撃退の功績で、義光は出羽57万石を領する山形藩の初代藩主となります。以後、領内に善政を敷き、慶長16年(1611)には従四位下、左近衛少将、出羽守に叙任。 慶長19年(1614)、義光は山形城内で没しました。享年69。葬儀の日、寒河江十兵衛らかつて敵対した者を含む4人が殉死し、義光の温情ある人柄を窺わせます。
更新:11月21日 00:05