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伊達と上杉の宿敵「最上義光」...梟雄と語られてきた戦国大名の知られざる素顔

2024年03月08日 公開

松尾剛次(山形大学都市・地域学研究所名誉所長)

最上義光

殺戮をものともしない梟雄。謀略を巡らす、陰険な「羽州の狐」。悪逆なイメージでばかり語られてきたが、それは、実像とは異なるものである。本当はどのような人物だったのか──。

※本稿は、『歴史街道』2019年5月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

ずる賢くて、残忍な人物!?

戦国大名・最上義光(1546〜1614年)はこれまで、ともすれば等閑に付されてきた。義光の名が「よしあき」と読むこともさほど知られてはいない。

それだけならばまだしも、NHKの大河ドラマ『独眼竜政宗』では伊達政宗の敵役として描かれた影響もあって、ずる賢く、残忍な人物のように評価されてきた。

しかしながら、それは決して妥当ではない。実際の義光は、伊達政宗、上杉景勝、直江兼続ら戦国時代の他の武将たちと同様に、勇気と知恵を使って戦い抜き、山形藩初代藩主として57万石(実高100万石)の大藩を運営した名将であった。

そのうえ、文化的素養も併せ持ち、領民たちへの思いやりも深く、人間性に満ちた人物であったといえる。それではなぜ、「狡猾」「残忍」といった人物評価がなされてきたのであろうか。

従来、東北の大名論は、上杉中心史観や伊達中心史観によって描かれてきた。そのために、ライバルであった最上義光は過小に評価され、残忍な人物などと貶められてきたのである。

そもそも、中世の武将は、頑強な敵に対して謀略を使ったり、残忍な殺し方をする場合が少なくなかった。織田信長はよく知られているとおりで、伊達政宗しかり、直江兼続しかりで、確実な史料を見ても「皆殺しにするよう」命じている。その意味では、残忍でない戦国大名を探す方が困難なのだ。

つまり、平和な現在の価値観から、戦国時代の人々を評価するのは避けるべきである。ここでは、そうした観点より、近年の研究成果を生かしながら、義光の人生に光を当ててみたい。

 

「羽州探題」再興を目指して

最上義光は、義守を父、小野少将女(永浦尼)を母として天文15年(1546)正月1日に生まれた。妹の義姫は、後に伊達輝宗の正室となり、嫡男・政宗を産む。つまり、義光は伊達政宗の伯父にあたる。

義光の人生を語るうえで、室町時代において、出羽(現・秋田県、山形県)の統括者であった「羽州探題」の継承者として生まれたことは重要である。

義光が物心ついた頃には、「羽州探題」とは名ばかりになっており、その威令の届く範囲は、現在の山形市一帯くらいに過ぎなかったかもしれない。しかし、足利氏の一族、斯波氏という名門の、いわば武家貴族に生まれた意味は大きい。

義光が、3メートルを超えるような長い手紙を自らしたためるほどの文章力を持っていたのも、里村紹巴ら高名な連歌師と混じって京都で連歌を楽しめたのも、武家貴族に生まれた教養人であったからだ。

さらに、最上義光の「義」という字は、当時の室町幕府第13代将軍足利義輝から1字拝領したもので、最上家は将軍家直臣の立場にあった。その御礼のために、永禄6年(1563)6月14日には、義守・義光父子が京都にのぼり、将軍義輝に拝謁し、馬と太刀を献じている。

その後、永禄13年(1570)、25歳で義光は家督を相続し、最上家内の地位を確立すると、羽州探題の再興を目標に、山形県の北部、西部のみならず秋田県南部へも進出していった。

天正12年(1584)には、白鳥氏、寒河江氏を打倒し、山形のすぐ北側の天童に拠る天童氏を国分(現在の宮城県)へ追った。

天正15年(1587)には、庄内地方(山形県西部)の雄であった大宝寺氏を打倒して、庄内を手に入れることに成功し、羽州探題再興は成功したかに思えた。しかしながら、甥である伊達政宗は強大な勢力をもって陸奥国の覇権を確立しつつあり、最上領さえも虎視眈々と狙っていた。

そんな折、天正16年(1588)、元奥州探題の大崎家に内紛が勃発し、それぞれの勢力から援軍を要請された最上と伊達は、戦争状態に突入した。この争いは、妹の義姫による必死の懇望で和議に持ち込まれたが、伊達氏との争いに気を取られている間隙をついて、越後上杉配下である本庄繁長に庄内を奪われてしまう。

義光は庄内奪還を目指すが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による天下統一を契機 に、20万石の豊臣方大名となり、ここに羽州探題再興の夢は潰えた。ところが今度は、豊臣秀吉の後継者とされた秀次に、娘の駒姫が見初められて輿入れすることとなり、義光は豊臣大名として重きをなしていくことになった。

天正19年(1591)には、豊臣義光と名乗ることを許され、通常は羽柴義光と名乗った。豊臣一門となったのである。文禄の役に際しては、結局渡海することはなかったものの、天正20年(1592)、500名の家臣とともに、朝鮮渡海の準備のために肥前名護屋城に出向いている。

 

愛する娘の酷い死

豊臣一門として、盤石な地位を得たかに思えたが、文禄4年(1595)7月、最上義光の運命を変える事件が勃発した。豊臣秀次謀反事件である。

この事件は、秀吉が寵愛する淀殿に、秀頼が生まれたことがきっかけであった。秀次は秀吉の甥であったが、秀吉が跡継ぎとなる実子に恵まれなかったために、後継者となった人物であり、実子が生まれた結果、御用済みとなったのだ。

秀次は謀反の濡れ衣を着せられて、高野山で切腹した。ことはこれで済まず、秀頼の妻妾、子どもまでも三条河原で処刑されることとなった。秀次に嫁いで間もない義光の娘、わずか15歳の駒姫も殺されるという。

義光は命乞いをしたが許されず、秀次の他の妻妾らとともに、首を斬られ、三条河原に死体を捨てられるという、酷い処置が執られた。同年8月2日のことであった。

さらに、義光も謀反に加担したと疑われたが、徳川家康の口添えによって許された。義光の妻大崎殿は、娘の横死に心身消耗して、8月16日に亡くなっている。この事件以後、義光は秀吉に対して面従腹背の態度をとり、家康派の大名として活動することになった。

慶長3年(1598)8月18日に豊臣秀吉が死去すると、世は徳川家康を中心に動き始める。秀吉は晩年、家康を筆頭とする5人を五大老に任じ、自分の死後、幼い秀頼を補佐するようにと命じていた。

しかし、秀吉が没すると、家康は天下人として振る舞うようになっていき、慶長4年(1599)9月には、クーデターを行って大坂城に入った。家康は豊臣政権の実権を握ったのである。

家康は、とりわけ反家康派の大名に対して、大坂へのぼって服従を誓わせようとした。これに従わなかったのが、五大老の一人で、120万石の大大名であった上杉景勝であった。

上杉は慶長3年3月、秀吉の命により、謙信以来の故地・越後から、会津への国替えが行われていた。そのため、慶長4年頃の時点においては、領内は勿論のこと、城下整備が行き届いていなかった。それらを理由に、景勝の家臣・直江兼続は、景勝が上洛できないことを返信したのである。

慶長5年(1600)4月、世に言う「直江状」である。このために、上杉謀反のうわさが起こった。これに対し家康は激怒し、上杉征伐を決定した。他方、義光は、慶長5年4月19日に、家康が内裏へ参った際にも付き従っていることから、家康派大名であったことは明確である。

ここでとりわけ注目されるのは、南部、小野寺、秋田ら北奥羽の大名たちに対する軍事指揮権を、家康が義光に与えた点である。家康は、南部、小野寺、秋田らに対して、義光の指揮下で上杉方と戦うことを命じている。

このことは、家康がいかに義光を信頼していたかを端的に示している。そこで、義光のもとに、続々と北奥羽の軍勢が集まってきた。

 

上杉の大軍に善戦

慶長5年7月21日、家康は江戸城を出て、いよいよ軍馬を北へ進めた。ところが間もなく、25日には小山(栃木県小山市)から踵を返して、今度は西上することになった。石田三成、大谷吉継らの謀反と挙兵を知ったからである。

義光のもとにも、家康から上杉征伐の中止が伝えられた。そのため、集まっていた奥羽の軍勢は自国へ戻ってしまった。石田らが奉行らを説得し、秀頼の承認を受けて、家康追討の許可を得た点は重要であった。家康側が、いわば「賊軍」となったからである。

上杉らは勢いづき、反家康工作を積極的に行い、義光らにも上杉方に加担するように連絡を行った。大いに困ったのは義光である。家康に味方する気持ちに変わりはなかったが、豊臣方に加担しなければ、上杉に攻め込まれる可能性が高い。

そこで、上方での家康の勝利を信じ、時間かせぎをしようとしたが、結局、上杉勢が最上領に侵攻することになった。9月8日のことである。横手城(現、秋田県横手市)に拠る小野寺義道も、上杉に呼応し、最上領に侵攻してきた。まさに、絶体絶命のピンチである。

2万以上の軍勢となる上杉勢は、直江兼続が指揮する本隊が南から狐越街道を通って侵攻し、西の庄内方面からも侵攻してきた。義光は、兵力を長谷堂城、山形城、上山城の三城に集中し、籠城作戦をとった。

直江軍は、1000名が守る長谷堂城に総攻撃をかけた。義光が山形城から派遣した援軍と、長谷堂城の城兵との連携作戦と、高揚した戦意によって、長谷堂城守備軍は善戦していた。上山城攻撃のほうは、上杉勢が敗れ、ほうほうの体で米沢に逃げ帰っていた。

しかし上杉勢との兵力差は歴然であったため、義光は伊達政宗に援軍を要請。政宗は、母である義姫への愛情と、家康への忠誠心から、援軍派遣を決めた。上杉軍は長谷堂城へさらに総攻撃をかけてきたが、伊達の援軍もあって、多勢の上杉勢に対して持ちこたえることができた。

結局、関ケ原の戦いで石田らが敗れたとの情報が入り、直江は長谷堂城から撤退を開始した。攻守ところを変え、義光の追撃戦が開始されたが、直江は自ら鉄砲隊を集中させて防衛する作戦をとり、なんとか米沢に逃げ帰った。

庄内地域は、天正16年以来、上杉方に奪取されていたこともあり、義光はその回復を目指して侵攻を命じ、翌年の4月には酒田城も奪い返した。また、小野寺方も追い返すことに成功した。こうして北の関ケ原の戦いでは、最上義光が勝利者となった。伊達政宗は上杉方の福島城を攻めたが、落城させることはできなかった。

 

「羽州探題」から名藩主へ

戦いが終わって、豊臣政権内での覇権を確立した家康は、慶長6年(1601)の5月11日、参内して天皇に拝謁をした。その際、真田攻めの功労者である森忠政と、関ケ原の戦いで先陣を切った井伊直政らとともに、最上義光と織田長益を引き連れている。天皇に、天下分け目の戦いでの最大功労者たちを紹介したのであろう。

最上軍が2万を超える上杉の大軍を出羽の地に引き留めたことにより、関ケ原の戦いにおける家康方の勝利に、大いに貢献したと見なされたのである。義光は「家康に天下を獲らせた男」と呼んでも良いであろう。北の関ケ原の戦いに勝利した義光は、論功行賞によって20万石から57万石の大大名となった。

江戸幕府が成立すると、義光は初代山形藩主として、種々の政策を打ち出していった。そのうちのひとつとして、「最上家家法」という分国法の整備がある。山形藩を法によって統治しようとしたのである。

その内容は、武士たるもの文武両道を嗜むべきこと。忠孝の道を第一にすべきこと。他人の協力を得た軍功は自分一人の功としてはならない。同輩を騙して先駆けするべきではない。敵城が落ちた場合は、落人、女、童、病人はみだりに殺してはならない、といったものであった。

武道だけでなく、文化人であることも求めるあたりに、武家貴族に生まれた教養人らしさが見て取れる。

領内の整備もよくしたが、山形城は、関東以北では江戸城に次ぐ広さを有するにもかかわらず、天守閣がないという特徴がある。『羽源記』という記録によれば、重臣たちは天守閣建造を望んだが、義光は、城の普請は民を疲弊させるから、との理由で建築を認めなかったという。

一方で、山形城下はきちんとした町割りが施され、武士の住むゾーンを三の丸の内、その外側に町人、職人の住むゾーンというように整えられている。まさに、現在にも繫がる山形城下の基礎を築いたのである。

寺社の復興もはかり、古代以来の最上領内の寺院はすべて義光による援助を受けている。鎮護国家を祈る寺社の修造は、領主の義務であったからだ。これは同時に、義光が篤い信仰心を持っていたという側面を物語るものでもある。なお、国宝の羽黒山五重塔も義光によって修造されている。

さらに、最上川水運の整備にも尽力している。最上川には舟運にとっての3つの難所があったが、それを整備して京都と山形を結ぶ舟運の便をはかったのである。また、庄内においては総延長30余キロメートルという長大な灌漑設備(北館大堰という)を建設し、4200町歩という美田を生み出した。

配下の北館(北楯)利長の献策を受け、周囲の反対を押し切って建設を許可し、資金・資材を援助して成功させたのである。

慶長17年(1612)7月のことであった。庄内地方は米どころと知られるが、それも義光の北館大堰建設のおかげであることを忘れてはならない。

文化人でもあった義光の関心は、絵画や屛風などにも及んでいた。「遊行上人縁起絵」(国の重要文化財)など、文化財の制作にも一役買っている。義光は国宝「伴大納言絵詞」をも一時期保有していたと見られている。武家貴族の面目躍如たるものだ。

かつて「羽州探題」の再興を目指していた義光は、領国経営をよくし、冷静な視点と判断力を持ち合わせた、優れた「藩主」へと変身を遂げた。これまでは上杉中心史観や伊達中心史観によって、一面的な評価しかされてこなかった。

しかし、義光が遺した事績は偉大であり、名将のひとりとして再評価が進んでいくことを望みたい。天文15年正月1日に生まれた義光は、慶長19年(1614)正月18日に死去した。69歳であった。

【松尾剛次(まつお・けんじ)】
山形大学都市・地域学研究所名誉所長。昭和29年(1954)、長崎県生まれ。東京大学大学院博士課程を経て、山形大学教授。文学博士。日本中世史、日本仏教史専攻。著書に『葬式仏教の誕生』『知られざる親鸞』『家康に天下を獲らせた男 最上義光』などがある。

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