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敬天愛人~天を敬い、人を愛した西郷隆盛

2018年11月18日 公開
2022年06月15日 更新

童門冬ニ(作家)

大久保利通
大久保利通
 

西郷は人間関係を合理的に割り切らない

そういう意味でいえば、坂本龍馬や織田信長のように、物事を割り切って前へ進めないところが西郷の限界であり、また魅力でもあった。西郷のそういうところに多くの人々が親近感を持った。

人間関係というものは割り切れるものではない。一時期はやったハーバード・システムという、ハーバード大学経営学教室の人間関係論や技術論がそれほど日本に根づかなかったのは、こういうところに理由があったと思う。つまり、いま西郷が依然として愛されているというのも、実はここに理由がある。なぜなら日本人は人間関係を技術化することを嫌う。こういうときにはこうすればいいとか、こういうときにはこうすべきだとか、心と心の関係で結びついている人間関係を、わかりきった技術で割り切るということをしないのである。

なぜかといえば、人間関係の技術化は、それだけ自分が軽く扱われることになるからだ。こうなればAになる、こうすればBになる、などというテクニックを人間関係に応用することは、それだけ人間というものを馬鹿にしていることにつながる。人間は考える葦である。何か技法を用いれば、そのとおりに征服できるという考えは傲慢だ。他人に対して、その人格を尊重していないし、人間性を認めていないことになるからだ。

人間という動物は簡単に理解できるものではないし、薄っぺらな存在でもない。もっと奥に襞のある複雑な生き物だ。まして精神というもの、心というものが、いろいろな場面で思わぬ力を発揮する場合があるのだ。だからこそ、人生意気に感ずとか、この人のためならば命もいらない、という考えが成立する。そういうことを無視して、ただ技術論だけで割り切ろうとすれば、やはり抵抗せざるを得ないという層もたくさんいた。

坂本龍馬や織田信長の生き方に共感できない人々は、西郷のこういう屈折した、また陰を持つ部分に魅力を感じた。西郷が依然として人気者だということは、そういうことを物語っている。つまり、シコシコと目立たない努力をしていてもなかなか評価されない。表現が下手糞なために、あるいは組織内の処世術が下手糞なために、どこかへ飛ばされてしまう。窓際族になったり、あるいは窓際からベランダに出されたり、さらに昇降階段にまで追い払われることもある。が、そういう不条理をいったい誰に訴えればいいのか。組織の論理というものは、そういう不条理をあえて行って、しかも平然としている。思いやりはかけらもない。それでいいのだろうか。そういう境遇に嘆き苦しんでいるビジネスマンがいっぱいいる。そういう人々は、屈折を経験し、傷を経験し、そういう痛みや屈辱を知っているリーダーに出会うと、当然親しさを感じ、懐かしさを覚える。西郷隆盛はまさにそういう存在なのだ。

だから、西郷の存在は、どちらかといえばエリート向きではないかもしれない。悩み、苦しみ、誤解され、能力の評価に不当なモノサシを当てられるというような点、いってみれば組織の持つ不条理によって苦しめられている中間管理職の支え手になる。つまり人間的なリーダーなのだ。

しかし、だからといって西郷は常に不平不満を口にして、何もせずに片隅でぼやくような職場の不満派ではなかった。彼は歴史の前面に立って歴史を変えていった。討幕などという思い切ったことをやった。そういう行動力にはやはり学ばなければいけない。彼を、ただ不平不満分子の同調者だとか、共鳴者だと割り切るのは、やはり間違いだ。彼はそんなところにはいなかった。

ところが一方では、不平不満を持つ連中に対しても理解を示した。「おはんたちの言うことにも理があるし、無理もない」という優しさを持っていた。が、彼は続けてこう言う。「人事を尽くそう。おはんらは人事を尽くしておらんよ。俺と一緒にもっと頑張ろうじゃないか」、こういうリーダーだった。だからこそみんながついていった。

ただ、その彼が最後に西南戦争を起こして鹿児島士族のために命を落としたということは、いったいどういうことだったのだろうか。これが彼の限界なのだろうか。つまり、時代とのズレがここまで高じてしまったのだろうか、必ずしもそうではなかろう。西郷は心の奥底では、自分の中の時代のズレ、また、自分についてくる鹿児島士族たちの時代のズレを知っていた。もちろん彼は、こういう士族たちを置き去りにしていくような中央政府のやり方は間違いであり、もっと救済策を講じなければいけないと思っている。

しかし西郷自身も、大村益次郎たちが繰り広げた東北戦争や江戸彰義隊の攻撃から、はっきりと日本の軍隊がどうあるべきかということをいやというほど知らされていた。軍隊はもう武士だけでは駄目だ。武士よりもむしろ強いのは、農民や一般の市民だ。長州奇兵隊以来培われてきた軍隊、つまり国民皆兵にしたほうが、侍以上の力を発揮するとわかった。これは事実をもって示された。西郷はこの前にたじろいだ。だから、軍人は士族だけでなければならぬという説は本来成立しない。が、それにしがみついて、それしか生きる道がないと思っている層をいったいどうしたらいいのか。

これに対する心くばりや優しさが、時の中央政府にはまったく欠けている。しかもその頂点に立っているのは、薩摩藩から出ていった盟友の大久保利通ではないか。大久保よ、いったい何をしているのだ、というような憤りと悲しみ、そしてもっといえば、時代に乗り遅れてしまった鹿児島士族を全部まとめて、自爆的に地獄に道連れにしたのが西郷隆盛だったのではないのか。こんな解釈も成り立つのである。

つまり、西郷の西南戦争というのは、自己の時代へのズレをはっきり認識し、もっとズレている連中を引き連れて、最後のリーダーシップを発揮しながら、これを歴史の外側に埋めてしまおうという意図がまったくなかったのかどうか、そのへんはかんたんに言い切れない。

とにかく、西郷の己の磨き方というのは、繰り返しになるけれども、常に傷をバネにしていた。傷の痛さを知っているからこそ、他人の傷の痛さがわかる。だからその傷に対するいたわりの心をけっして忘れない。しかし、ただ傷の痛みだけにうっとりと自己陶酔を感じていたのでは時代は進まない。自分も向上しない。今度は二度と傷を受けないように気をつけよう、あるいはこの受けた傷を基にして、もっと前へ進もうという向上心がなければ、傷を受けた意味がなくなる。痛みを経験した意味もなくなる。それが西郷の生涯を通じた自己向上のあり方、つまり、自分の磨き方であったのである。

※本記事は童門冬二著『西郷隆盛 人を魅きつける力』(PHP文庫)より一部を抜粋編集したものです。

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