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敬天愛人~天を敬い、人を愛した西郷隆盛

2018年11月18日 公開
2022年06月15日 更新

童門冬ニ(作家)

西郷隆盛(PHP文庫)
 

天を敬い、人を愛す

傷を受けるたびに西郷は反省する。が、彼自身にその後も大きな傷が訪れる。開明的な彼をしても、ついに追いつけなかった時代とのズレが、彼の中にポッカリと口を開く。

その一つは、たとえば討幕戦争のときに、それまで全軍の参謀役を務めていた彼の位置が非常にあやふやになってきたことがある。そして新しく頭をもたげてきた村田蔵六、すなわち長州の大村益次郎の指揮ぶりに彼が従わざるを得なくなったときがあった。それは江戸の上野の山に立てこもった彰義隊を攻撃する時点から始まり、東北戦争全般についてそういうことがいえる。

大村益次郎は、彰義隊を討伐することを強く主張し、西郷は勝海舟にまかせることを主張したが、結局、大村の意見で決着がつく。このため西郷の戦巧者、あるいは政府軍の参謀としての影が非常に薄くなった。これもやはり彼自身が傷にこだわりすぎて、坂本龍馬のように、弱者を置き捨てにすることができなかったことに原因がある。優しい人間だったために、彼は置き去りにすることができない。自分と一緒に同時代を生き、あるいは同じような次元に立って、少しずつ時代に後れていることを知っていながらも、どうすることもできない業を背負った人間たちと常に行動を共にしていく。

これがいってみれば最後の西南戦争に、本意ではなかったろうが彼が参加せざるを得なかった大きな原因の一つであろう。つまり彼は時代に後れてしまった下士階級、薩摩藩の士族たちに、自分の命を与えてしまうことになる。彼が敢えてそういう道を歩いたのは、新政府のビューロクラート(官僚政治家)になっていった旧同僚たちとの間にもズレが生じていたためだ。特に大久保利通を頂点とするビューロクラートは生活が贅沢になっていた。大きな屋敷に住んで、うまいものを食べ、きれいな服を着ていた。これを見た西郷はこんな感想を述べている。

「役人の生活というものは質素でなければいけない。あんな安い給料で本当に気の毒だと言われるぐらい、働きに働いて、人民のほうが逆に、役人の給料をもう少し上げてやってくれという世論が起こったら、ベースアップをすべきだ。それにもかかわらず、いまの役人たちは本当に贅沢をしている。慨嘆にたえない」

しかし、遮二無二ヨーロッパに追いつけ追い越せという政策を続けている連中にしてみれば、「西郷さんはズレてきた。時代に後れているよ」ということになる。西郷が島で悟ったのは「敬天愛人」という思想だった。「敬天」というのは天を敬うこと、「愛人」というのは人を愛するということだが、この間にもう一つの考え方が挟まっている。それは、「人事を尽くして天命を待つ」という思想である。

坂本龍馬にはこれがなかった。彼は人事を尽くして天命を待つなどと考えないことはもとより、おそらく天などというものを信じていなかったのではなかろうか。この点は織田信長に似ている。坂本龍馬は織田信長と同じで、おそらく神や仏を信じていない。信じられるのは、自分の力だけだという人間万能主義があった。だから坂本龍馬と織田信長はあっけなく死んでしまったが、死に方自体はけっして後悔とは無縁だったろう。それは、人間の力によって社会を変えられると信じ、また事実変えたという実績を持っていたからだ。

西郷にはそういう思い上がりはなかった。彼はあくまでも天というものを敬い、一種の運命論を持っていた。人力の限界というものを知っていた。それは若いときに彼が経験した傷に立脚していた。いってみれば、どんなに自分では誠意を尽くし努力をしてみても、天が自分に傷を与えることがある。しかし、それを恨んではならない。自分の能力不足だと思う。しかし、能力不足だと思って自己啓発をしてみても、また次の機会には天が傷を与えることがある。つまり、自分を挫折させ、失敗させることもある。しかし恨まない。そういう繰り返しが西郷の一生であった。

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