字は奉先、五原郡九原県の人。三国志最強の猛将である。最初に仕えた丁原を殺して董卓に寝返り、その董卓も殺害するなど、裏切り者としても知られる。
董卓殺害後、呂布は流浪の末、曹操に敗れて、徐州の劉備のもとに身を寄せた。だが、裏切りを繰り返し、最後は曹操に攻められ、生け捕りにされた。
呂布は曹操の前に連れてこられた際に、「殿(曹操)が歩兵を率い、私が騎兵を率いたのなら、たやすく天下平定できる」と持ちかけている。才能を尊ぶ曹操が迷いを見せると、劉備が進み出て、「丁原と董卓を裏切った事実をお忘れか」と問うた。
けっきょく首を絞められて処刑されたが、呂布はそのとき劉備を指さし、「この男こそ一番信用できないのだぞ」と罵った。
『演義』での見せ場は、劉備三兄弟と対決した「虎牢関の戦い」だ。
画戟を手に赤兎馬にまたがり、蛇矛を突き出す張飛と、青龍偃月刀を舞わせた関羽に挟み撃ちされ、さらに二本の剣を抜いた劉備が助太刀に入っても負けることのなかった呂布の勇姿は、三国志最強の名にふさわしく、読者の胸を躍らせる。
字は孟徳、沛国譙県の人。曹魏の土台を築いた一代の英雄だ。祖父の曹騰は宦官であった。祖父の財力と人脈を基盤に台頭していくが、後述する「赤壁の戦い」で大敗したため、天下統一は叶わなかった。
その後、魏公となり、魏王となるが、皇帝の座には即かないまま、66歳で病没した。曹魏の初代皇帝となるのは、曹操の息子・曹丕である。
出自や過去にかかわらず、才能のみを基準に人材を登用する、当時としては画期的なシステムで魏を成長させるなど、政治家としても類い希な才能を発揮した。その才は軍事・政治に留まらず、書、音楽、囲碁などにも及んだ。
「建安文学」を興し、詩人としても名を残した。また、現在読まれている『孫子』は、基本的に曹操が注釈を入れたものである。
『演義』では、圧倒的な強さと、人間的な魅力を併せ持つ希代の悪役として、絶大なる存在感を示している。
『三国志』を記した陳寿は、曹操を「超世の傑」──時代を超えた英傑と評した。その言葉どおり、曹操は時代と空間を超え、現代の日本でも愛され続けている。
字は元譲、沛国譙県の人。『正史』によれば、夏侯嬰(前漢高祖の将軍)の後裔で、曹操の従兄弟にあたる。流れ矢が目に当たり、左目を失ったことから、盲夏侯と呼ばれた。
『演義』では、このとき夏侯惇は、眼球ごと矢を引き抜くと、「父母に貰ったもの、棄ててなるか」と、眼球をムシャムシャと咀嚼し、敵将を一突きにした。それを見た周囲の武将は肝を冷やしたという。
このシーンが有名なせいか猛将のイメージが強いが、『正史』の夏侯惇は、後方支援や本拠地の守備を任されていた。
慎ましい性格で、余分な財産があれば人々に分け与えた。干ばつやイナゴなどの災害の際には堤を築き、自ら土を担いで、将校たちを指揮し、稲を植えるように指導した。
猜疑心が強い曹操も、夏侯惇には揺るぎない信頼を寄せていた。曹操は彼を馬車に同乗させ、寝室の出入りまで許したという。
曹操亡き後、曹丕が魏の皇帝に即位すると、大将軍に任命された。臣下として最高の待遇であるが、そんな地位よりも主君の側に行きたかったのだろうか。任命から数か月後、曹操の後を追うように、この世を去った。
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孫権ー道化か切れ者か、評価が分かれる呉の皇帝 >
更新:12月04日 00:05