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周瑜は『演義』で不当に貶められている?…孔明・劉備とあの武将たちとの関係

2020年12月28日 公開
2022年08月01日 更新

鷹橋忍(作家)

 

孫権ー道化か切れ者か、評価が分かれる呉の皇帝

字は仲謀、呉郡富春県の人。父親の孫堅は、反董卓連合軍の一員として活躍した。建安五年、兄の孫策が暗殺されると、19歳で後を嗣いだ。顎が張って大きな口、紫髯という風貌の持ち主だったと伝わる。

赤壁の戦いでは、劉備と結んで曹操を退けた。以後、周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜と、優秀な人材に恵まれたこともあり、曹操、劉備の間を巧みな外交で立ち回り、黄龍元年(229)、初代皇帝として即位した。呉の建国である。なお、諸葛亮の兄・諸葛瑾は、孫権に仕えている。

物語の主人公の王朝である蜀漢や、その敵役の王朝である曹魏の人間を引き立てるためか、道化役として描かれることが多い。しかし、孫権は、なぜか理想に近い君主に描かれ、晩年に起こした後継者争い(「二宮事件」)や酒癖の悪さには触れられていない。

 

周瑜─『演義』では貶められてしまった貴公子

字は公瑾、廬江郡の人。三公(臣下としての最高位の三つの官職)を二代輩出した、楊州随一の名家出身の貴公子である。孫権の兄・孫策とは、ともに橋氏の姉妹を娶り、義兄弟の関係を結んでいた(断金の交わり)。

孫策の死後は孫権に仕え、中心人物として政権を支えた。孫権はまだ若かったが、名門出身の周瑜が率先して孫権に臣下の礼を取ったため、他の者も従ったという。

建安13年、赤壁の戦いの前に曹操が数十万の兵を率いて呉に迫ると、呉の家臣たちは、孫権に降伏を勧めた。しかし周瑜は、魯粛とともに戦うことを説き、反対論を跳ね返した。

赤壁の戦いでは程普とともに指揮を執り、黄蓋の献策を取り入れ、曹操軍を敗走に追い込んだ。

『演義』の周瑜は、不当なまでに貶められ、孔明の才能を恐れ、殺害しようと何度も罠を仕掛けるが、ことごとく見破られるという、道化役で描かれる。だが、『正史』が語る周瑜は、美男子で音楽の素養もあり、鎖骨を矢で射貫かれても陣頭に立ち、味方を鼓舞する気骨ある指揮官であった。

周瑜は、劉備には警戒心を抱いていたといわれ、「益州を攻め取り、西涼の馬超と同盟して、曹操と天下を争う」という壮大な構想を持っていたが、準備が整う前に、36歳で病死してしまった。

もう少し周瑜が長生きしていたら、蜀漢も曹魏も存在しなかったかもしれない。

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