字は子龍、常山郡真定県の人。もともとは後漢の公孫瓚の配下であった。
劉備が公孫瓚の将として袁紹との戦いに派遣された際に主騎として従い、公孫瓚が滅びると、あらためて劉備に仕えた。
趙雲は、張飛も活躍した長坂坡の戦いにおいて、逃げ遅れた劉備の子・阿斗(のちの劉禅)と、その生母の甘夫人を救い出したことで知られる。
また、曹操との漢中争奪戦では、わざと門を大きく開けて曹操の大軍を迎え撃ち、劉備から「子龍の身体は、すべて肝っ玉だ」と称賛された。
主君に諫言することも厭わなかった。劉備が、関羽の弔い合戦で呉を討とうとしたときには、「魏を放置して呉と戦ってはならない」と止めている。
そんな趙雲に、劉備も絶対的な信頼を寄せていた。『正史』によれば、劉備が敗北した際に、「趙雲は北方に去った」と言う者があったが、劉備は「子龍は、わしを見捨てて逃げはしない」と、その者を手戟で打ったという。
字は士元、襄陽郡の人。「伏龍」と呼ばれた諸葛亮と並び、「鳳雛(鳳のヒナ)」と称された。
呉の周瑜のもとで功曹の役についていたが、周瑜の病死後、荆州を治めた劉備に仕えた。当初、劉備からは重用されず、県令に任命されただけであった。
だが、諸葛亮から重用するよう薦められ、後述する呉の魯肅からも「龐統は、もっと重要なポジションを与えてこそ、力を発揮できる」という意味の手紙が送られてきたことなどから、劉備は、諸葛亮と同じ軍師中郎将に任命した。
ところが、龐統は雒城攻撃中に、流れ矢に射貫かれ、戦死してしまう。享年三十六とみられている。
龐統が劉備に仕えた時間は短く、また、酒席で「今宵は実に楽しい」と戦勝に酔いしれる劉備に対して、「他国を征伐して喜ぶことは、仁者の戦いではない」と慢心を咎めるなど、緊張感が走る場面もあった。
それでも、劉備にとってはかけがえのない存在だったのだろう。劉備は龐統を哀惜するあまり、彼の話をするたびに涙した。
字を仲穎、隴西郡臨洮県の人。暴虐非道を繰り返した、三国志きっての悪役である。
もともとは隴西の軍閥にすぎなかったが、中平6年(189)、霊帝が崩御し少帝が即位すると、朝廷の宦官と外戚の勢力争いに乗じて洛陽に入り、武力を背景に政権を掌握した。
やがて、袁紹を盟主に反董卓連合が組織される。劉備も、曹操も、そして、後述する孫呉の皇帝となる孫権の父・孫堅も、この反董卓連合の一員に、名乗りを上げた。
劉備の反董卓連合での具体的な動向は不明だが、『演義』では、劉備が黄巾の乱で敗走していた董卓を助けたが、董卓は劉備を「無位無官」と侮り、張飛が激怒するというシーンが描かれている。この董卓を暗殺したのが、次に登場する呂布である。
更新:12月04日 00:05