字は子敬、臨淮郡の人。裕福な豪族の出身であり、援助を求めた周瑜に、二つの米蔵のうち、一つを丸ごと提供するなど、その財を惜しみなく交友に注いだ。その周瑜の推挙で孫権に仕えることになる。
『演義』では、周瑜と諸葛亮の間でオロオロするお人好しに描かれるが、魯粛は革新的な考えの持ち主であった。当時の絶対的な価値観であった「漢室復興」を実現困難と説き、孫権に「長江流域を領有して孫権自身が皇帝となり、天下を三分すべき」と勧めた。
諸葛亮も「隆中対 (天下三分の計)」を唱えているが、これも魯粛流の「天下三分の計」である。
赤壁の戦いでは、諸葛亮と交友関係を結んで、劉備と孫権の連合を成立させた。赤壁の戦いの勝利後は、魯粛は劉備を曹操に対抗させるための第三の勢力に育てようと、「荊州を貸す」など、彼の勢力拡大を強力に支援した。その後も、蜀と呉の同盟を一身で支えていく。
魯粛を「傲慢だ」と非難し、「未熟で任用は早すぎる」という意見もあったが、孫権は魯粛を重用し続けた。
だが、魯粛は孫権の即位を見ることなく、建安22年(217)に死去した。
呉と蜀の信頼関係を支えた魯粛に感謝の念を示したのか、諸葛亮は、彼のために喪に服したという。
字は公覆、零陵郡泉陵県の人。黄蓋は、『演義』で「鉄鞭」の使い手として描かれる呉の武将だ。孫堅、孫策、孫権の三代に仕えた。威厳ある風貌で、配下の兵士によく心配りをしたため、彼が率いる軍では、兵士たちは先を争って戦ったという。
赤壁の戦いには、周瑜の配下として挑んだ。黄蓋は、曹操の水軍の密集ぶりをみて焼討ちを思いつき、周瑜に進言した黄蓋の献策は採用された。
黄蓋は曹操に「投降したい」と記した手紙を送って油断させたうえで、先陣を切って、火のついた軍船を突入させた。『演義』では、故意に周瑜に逆らって棒で打たれる「苦肉の計」を行ったという創作が加えられている。
火攻めは見事に成功し、曹操の水軍は壊滅した。『演義』では、東風を呼んだ諸葛亮の活躍が目立ち、火攻めの献策も、なぜか、諸葛亮と周瑜の策とされてしまっている。
だが、『正史』の赤壁の戦いでは、劉備は呉の兵数が少ないことなどから、周瑜の指揮で曹操軍を撃退できるかどうか不安になり、軍を動かさずに後方にいたため、劉備や諸葛亮の出る幕はほとんどなかった。
曹操の中国統一を阻んだ、赤壁の戦いの影のヒーローとして、黄蓋の名を記憶して頂けるなら、彼もきっと喜ぶだろう。
更新:12月04日 00:05