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剣豪将軍・足利義輝を苦しめ続けた三好長慶と松永久秀

2020年07月09日 公開
2022年08月08日 更新

小和田哲男(静岡大学名誉教授)

 

三好政権の中で頭角を現わした松永久秀

将軍の足利義輝を京都から追い落とした三好長慶は、細川氏綱を傀儡とし、幕府の実権と畿内の覇権を握った。

本拠を越水城から同じ摂津の芥川山城に移した三好長慶の、この時点での支配領域は山城、丹波、摂津、和泉、淡路、讃岐、阿波の七カ国にも及んだ。

これは「三好長慶政権」と呼ばれ、「織田信長に先行する天下人」と称されることもある。さらにいえば、政権のその独自性から、「織田信長政権の先取り」と評することもできる。

その独自性とは、幕府権力や将軍権力をバックボーンにもたないことだ。三好長慶は後の信長と同じように、将軍権威を必要とすることなく、幕府が裁断すべき争論を裁決しており、将軍も管領も「あってなきがごとし」という状態となったのである。

細川氏は最後まで将軍権威を必要としたが、長慶は必要としなかった。これが「三好長慶政権」の特徴だ。

このような政権を樹立した三好長慶のもとで台頭したのが、松永久秀である。

久秀の前半生は、まったくわかっていない。一応、永正7年(1510)とも、永正5年(1508)の生まれともされ、出身地は山城国西岡や摂津国五百住など諸説あり、定かでない。

確かなことは、久秀が天文10年(1541)より前に、三好長慶の配下に加わったことである。その翌年、久秀が軍勢を率いて南山城に攻め込んだことが、文書から確認できるからだ。

当初は三好長慶の右筆(書記役)を務めていた久秀だが、やがて弟の松永長頼とともに軍事面で力を発揮していき、その地位を高めていく。特に天文20年(1551)4月には、三好長慶と敵対する細川晴元を相国寺の戦いで打ち破っており、久秀の株は大いに上がった。

永禄2年(1559)には、三好長慶の命を受けて大和に攻め込み、筒井氏の所領や、大和守護の座にあった興福寺の所領を奪って、大和の統一を進めていく。

その頃から久秀は、大和の西に位置する信貴山城を本拠とし、永禄3年(1560)には奈良に多聞山城を築いている。

こうして大和を支配した久秀は、寺社、大名、公家、あるいは幕府との交渉に力を発揮するなど、「三好長慶政権」のトップに近いところまで昇っていった。それは、三好長慶が久秀の実力を認めていたということでもある。

譜代の家臣でないにもかかわらず、久秀は永禄4年(1561)、三好長慶と同じ従四位下の官位を与えられ、将軍・義輝からは足利氏の桐の紋の使用も許された。

外様や身分の低いものを登用するとき、普通は名門家の名跡を継がせることが多い。しかし久秀は、松永姓のままで異例の待遇を得たのである。

三好長慶には、従来の古い秩序には囚われないところがあったようだ。そのあたりも、織田信長に似ていたと思われる。

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