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剣豪将軍・足利義輝を苦しめ続けた三好長慶と松永久秀

2020年07月09日 公開
2022年08月08日 更新

小和田哲男(静岡大学名誉教授)

信貴山城

大河ドラマ「麒麟がくる」によって、足利義輝と松永久秀に対する注目が高まっている。月刊誌『歴史街道』2020年7月号でも、「足利義輝と松永久秀―『剣豪将軍』と『梟雄』の正体」と題し、最新研究を踏まえて二人の実像に迫っている。

静岡大学名誉教授の小和田哲男氏は、将軍家に生まれた義輝と、出生地も定かでない久秀の対極的な二人は、共通する役割を果たしていたと語る。

本稿では、同記事より剣豪将軍とも謳われる足利義輝を苦しめた二人の武将について言及した一節を抜粋して紹介する。

小和田哲男 静岡大学名誉教授
昭和19年(1944)、静岡市生まれ。昭和47年(1972)、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史、特に戦国時代史。大河ドラマ『麒麟がくる』の時代考証を担当。著書に『明智光秀・秀満』『戦国武将の実力─111人の通信簿』など、近著に『戦国武将の叡智─人事・教養・リーダーシップ』がある。

 

室町幕府を揺るがした、細川京兆家の内部抗争

足利義輝と松永久秀は、何者だったのか。戦国時代において、彼らが果たした役割を明らかにするためにも、まずは登場前夜の時代背景について触れておきたい。

応仁元年(1467)から文明9月(1477)まで続いた応仁・文明の乱の後、室町幕府は不安定ながらも、かろうじて幕府としての体裁を保っていた。ところが明応の政変で、幕府の体制は崩れていく。

明応の政変とは、明応2年(1493)、管領の細川政元が、10代将軍・足利義稙を廃し、11代将軍に足利義澄を擁立した事件である。
家臣が将軍の首をすげかえたという点で、まさに「クーデター」と称すべき行為だが、幕府の実権が管領に握られていることが、誰の目にも明らかとなった。

もっとも、管領職を務める細川氏嫡流の京兆家も盤石ではなかった(代々の当主が名乗る右京大夫の中国式の呼び名「京兆」に由来する)。

細川政元には妻子がなく、養子に迎えられた高国、澄元、澄之の三者間で、家督争いが起きたからである。

永正4年(1507)、細川政元が澄之派の香西元長らによって暗殺されると、混乱の最中、細川高国が台頭する。高国は澄之を滅ぼし、さらにもう一人の養子である細川澄元を阿波へ追い落とし、家督を継いで管領となった。

一方で幕政を掌握した高国は、廃されていた足利義稙を将軍に復帰させるが、やがて義稙と対立。今度は大永元年(1521)に足利義晴(11代将軍・義澄の子)を12代将軍に擁立した。

だが、細川家中の内部抗争は終わったわけではなかった。

大永6年(1526)、高国によって阿波に追われていた細川澄元の子・晴元が、三好元長に擁立され挙兵。畿内に攻め込み、享禄4年(1531)に細川高国を滅ぼすのである。晴元は堺に本拠を置き、将軍・足利義晴とも一度は手を結び、管領に就任することとなった。

ところが、今度は細川晴元と、細川高国の養子である氏綱との間で、争いが始まる。そして将軍の足利義晴も、時には晴元と、時には氏綱と手を組むなど、離合集散を繰り広げていくこととなる。

現代にあてはめれば、政局によって政権や与党のトップが頻繁に交代するような有様で、将軍、管領ともに安定せず、幕府の屋台骨は傾いていくばかりであった。

そうした最中の天文5年(1536)、将軍・義晴の嫡男として生まれたのが、足利義輝であった。

義輝は天文15年(1546)、弱冠11歳という若さで元服し、13代将軍に就任する。しかし、彼を取り巻く情勢の厳しさを反映してか、それらの儀式は京都ではなく、近江の坂本で執り行なわれた。

それは、細川京兆家における、晴元と氏綱の抗争の煽りを受けたものであった。氏綱についた義晴が、細川晴元との戦いに敗れ、義輝とともに京都を出て坂本に逃れていたからである。

翌年、細川晴元を支援する近江の六角定頼に攻められた義晴は、晴元と和睦。これによって、義輝を連れて京都に戻ったが、その頃から、晴元の家臣だった三好長慶が急速に台頭してくる。そして松永久秀も、三好長慶の家臣として、歴史の表舞台に姿を現わすのである。

 

三好長慶の台頭と足利義輝の苦難の始まり

三好長慶は、足利義輝と松永久秀を語るうえで、欠くことのできない人物である。まずは、その足跡に触れておきたい。

大永2年(1522)、三好長慶は阿波国で生まれた。

父は三好元長で、細川晴元を管領に就任させた功労者である。ところが天文元年(1532)、一向宗門徒との顕本寺の戦いで、元長は主君・細川晴元の謀略により、自害に追い込まれてしまう。

これを受け、翌年、三好長慶は12歳で父の跡を継ぐが、天文3年(1534)10月、細川家の重臣・木沢長政の仲介で、父の敵でもある細川晴元に仕えることとなる。

天文5年、細川晴元に従って上洛を果たした三好長慶は、3年後の天文8年(1539)8月には摂津の西半国の支配を任され、越水城に本拠を置く。港湾都市として栄えていた兵庫港が近くにあり、長慶がその後、経済的にも飛躍していく大きな要因となる。

天文11年(1542)3月、不穏な動きを見せる木沢長政を、河内の太平寺の戦いで打ち破った三好長慶は、細川晴元の被官の中で筆頭の地位に昇る。

しかし、細川晴元が細川氏綱と対立した際、三好長慶は主君に反旗を翻して、氏綱を支援する側にまわった。

天文18年(1549)6月、三好長慶は江口の戦いで細川晴元方の兵を破り、晴元を京都から逐った。なお、晴元に与していた足利義晴と義輝は、このときも近江坂本へ避難し、京都は将軍、管領ともに不在となる。

だが、義晴・義輝父子も手をこまねいていたわけではなく、天文19年(1550)、慈照寺 (銀閣寺)の近くに中尾城、さらには北白川城を築き、京都復帰に向けて準備を進めていた。だがその最中に、義輝は父・義晴を病で失ってしまう。

義輝の京都復帰が叶うのは、その2年後の天文21年(1552)のことであった。

この年の1月、義輝や細川晴元を支援していた近江の六角定頼が死去。跡を継いだ義賢が、義輝と細川晴元の陣営、それに対抗する細川氏綱と三好長慶の陣営を調停、義輝はそれを受け入れ、京都への帰還を果たす。

ただし、細川晴元は和睦に応じず、若狭武田氏のもとに逃れ、細川京兆家の争いはこの時点でも終わっていない。

京都に入った義輝は、細川氏綱を京兆家の当主と認めた。一方、氏綱を擁立していた三好長慶も、この時点では、義輝とともに幕府を再興していくことを意図していたと思われる。

しかし、義輝は天文22年(1553)、再び細川晴元と手を結び、三好長慶と決裂してしまう。結果、霊山城を三好長慶に攻められた義輝は、近江の朽木へと落ちていった。

以後、永禄元年(1558)まで、義輝は朽木で再起を図り、三好長慶と対峙することになる。

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