鎌倉幕府打倒のため挙兵した赤松円心が立てた作戦はこうだ。
まず、雑兵軍団である赤松軍は1333年に京都の六波羅探題に攻め入る。六波羅探題とは、鎌倉幕府が朝廷を監視する目的で設置した出先機関だ。このとき、赤松軍はわずか3000の兵で騎馬武者を中心とする約2万の幕府軍と対峙したといわれている。
ただし、京都は狭い路地が入り組む市街地で森林も多い。広い平野での戦いを得意とする騎馬武者には不向きな戦場だった。
赤松軍は彼らを挑発するかのように狭い場所、動きにくい場所へと誘い出し、ゲリラ戦を展開した。
いったん解散したと見せかけて、京都の南西に位置する山崎付近(現在の京都府乙訓郡大山崎町)に陣を構え、淀川水系の輸送路を遮断した。大慌ての幕府軍は5000の兵を山崎へ派遣する。
赤松軍は山崎に入る道で待ち構え、弓兵が集中攻撃をしかける。これにより騎馬武者の足が止まり、その瞬間、左右の草むらから槍を手にした足軽が騎馬隊に突撃したのだ。幕府軍はたまらず敗走した。
少し離れた場所に陣取った弓兵の攻撃で敵の騎馬武者がひるんだとき、突撃する――この戦術は弓と槍双方の特徴を熟知した指揮官だからできたものだ。
戦闘スタイルが個人戦から集団戦へと変化していく時代に重要なのは、このように部隊を効果的に動かし、最大の戦果を挙げる戦術だった。
集団と集団の戦いの場合、接近戦になれば、柄の長い槍は刀などの短い武器に比べ相手よりも先に攻撃できるという利点がある。とくに馬上の敵に穂先が届くので、非常に有効だ。赤松軍は山崎の戦いでそれを証明した。
先に説明したように槍は用法が豊富だが、もっぱら刺す、突く、叩くことが中心なので、複雑な操作技術は不要だ。そのため武術の心得のない寄せ集めの足軽でも簡単に扱うことができた。
しかも槍は、敵に致命傷を与えることができる強力な武器だった。こういう利点もあり、槍は実戦で重宝されていったのだ。
南北朝時代に槍を効果的に使ったのは、南朝方の武将として活躍した楠木正儀だ。楠木正成の三男である。
楠木軍は足軽を重用し、ゲリラ戦を展開した。1352年の京都攻撃の際には、街路の左右の家の屋根に足軽を待機させ、突進してくる敵騎兵の馬に向けて矢を射った。そして落馬した敵将を地上に隠れていたところを槍で討ち取ったという。弓と槍の攻撃を連動させた戦法は集団戦では有効だ。
また、1361年の京都攻撃の際には、足軽が盾を並べ、盾の陰に槍や長刀を持った者を500~600人ずつ配した。この戦いでは敵の馬を槍で突いて落馬させ、突き刺したという。こうして槍は合戦の戦術をも進化させ、集団戦のバリエーションを増やしていった。
見方を変えれば、南北朝時代は、従来の騎馬兵を中心とする部隊を倒した者が合戦に勝利する時代の幕開けといえよう。
更新:12月21日 00:05