2019年08月19日 公開
2022年06月06日 更新
山田勝監修 『武器で読み解く日本史 』(PHP文庫)では、古代の弓・矛・剣から、近代の戦車・戦闘機まで、日本史に登場する武器・兵器が、いつどのように生まれ、時代にどのような影響を及ぼしたかを解説しています。本稿では、その一部を抜粋編集し、「武器」という視点から日本史を見直します。
今回は、仏教伝来時の権力闘争に決着をつけ、やがて武士の象徴となった飛び道具「弓」をご紹介します。
文献上で確認できる、日本の歴史における最初の武器の記録は「魏志」倭人伝に記されたものだ。「魏志」倭人伝は、中国の史書『三国志』の一部「魏書・東夷伝倭人の条」の通称である。
そのなかの3世紀中ごろ(弥生時代後期)、女王・卑弥呼が治めていた邪馬台国について記した箇所に、次のような一文がある。
「兵用矛・楯・木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃(武器には矛・盾・木製の弓を用いる。弓は下が短く、上が長くなっている。矢は竹であり、矢先には鉄や骨の鏃やじりがついている)」
つまり、邪馬台国では軍隊が矛と弓を武器として使っていたことがはっきりと記されているのである。
ここで注目すべきは、弓の形状だ。日本の弓(和弓)は古代から近世に至るまで、握りの部分が下端から約3分の1にある短下長上という世界的にもめずらしい独特の形状をしている。
上が長く下が短い弓はバランスを取るのが難しく、射るのに高度な技術を要するという。だが、矢を飛ばす際に飛距離を重視したり、速度を重視したりと、変化をつけることができるとされている。
古墳時代に続く飛鳥時代には、弓によって歴史が大きく変わった事件があった。当時、外来文化である仏教をめぐって、仏教を推進しようとする崇仏派の蘇我馬子と仏教を排除しようとする排仏派の物部守屋による豪族どうしの対立が深まっていた。これに皇位継承の問題が絡んだことで、587年、ついに両派の間で軍事衝突が勃発する。丁未の乱である。
物部氏はヤマト政権で軍事を担当していた氏族で、精強な兵を誇っていた。そのため、蘇我氏の軍勢は当初劣勢を余儀なくされた。
物部氏は拠点である河内(現在の大阪府)に稲城(稲を積み上げて作った防壁とされる)を築いて籠った。
守屋自身も木の枝によじ登って雨のように矢を射かけたため、蘇我氏の軍勢には数百の犠牲が出たという。
一計を案じた馬子は、物部氏随一の弓の名手であった迹見赤檮(とみのいちい)を引き抜いて味方につけた。そして、蘇我氏の側についていた厩戸王(聖徳太子)が四天王の像を作って戦勝を祈願すると、迹見赤檮が大木に登っていた守屋を射落とすことに成功。その結果、総大将を失った物部氏の軍勢は総崩れとなって大敗。以後、日本に仏教が広まることとなった。
この逸話は、当時の日本の戦いにおいて弓の腕前が戦局を左右する重要な要素であったことを示している。
飛鳥時代後期から奈良時代にかけて日本に律令制が定着すると軍隊の主力は弓となり、武官は騎射、歩射の成績が勤務評定で重視されることとなった。また、儀式への参列にも弓矢を携えることが定められるようになった。
ちなみに、弓には弦の長さが160センチ以下の短弓と、それ以上の長さの長弓の2種類がある。大陸系の騎馬民族はおもに短弓を使用し、東南アジアの密林地帯ではおもに長弓が使われていたが、日本では縄文時代から弥生時代にかけては両方が使われていた。
古墳時代以降は約2メートルの長弓が中心となっていき、奈良時代以降はその大きさで完全に定着する。