2018年08月13日 公開
2018年08月13日 更新
蘇我馬子の墓と推測されている石舞台古墳(奈良県明日香村)
蘇我馬子(?~626)といえば、聖徳太子とともに語られる古代日本史のビッグネーム。20代の若さで大臣に就くと、敏達・用明・崇峻・推古天皇の4代にわたってその地位を守り、蘇我氏繁栄の頂点に立った権力者だ。
天皇の外戚として権勢を誇る一方、排仏派の物部氏を打ち滅ぼし、仏教を手厚く保護した馬子。日本最初の本格的な寺院・法興寺(のちの飛鳥寺)まで築いたのだから、仏教興隆の立役者として、大々的に祀られてもよさそうなものだが、いやはやどうにもイメージがよくない。
語られることといえば、腹心の部下・東漢直駒を使って崇峻天皇を暗殺し、成功後は難癖をつけて東漢直駒も殺害したとか、晩年、推古天皇に「自分のルーツだから」といって天皇領であった葛城県の割譲を迫り、きっぱりと却下されたとか……。いずれも天皇家すらないがしろにする、その専横ぶりを伝えるものばかり。氏(うじ)・姓(かばね)の関係なく出世に能力主義を取り入れた「冠位十二階」や臣下が守るべき規範を示した「憲法十七条」を制定した偉人として語り継がれ、太子信仰まで形成された厩戸王(聖徳太子)とは大違い。まさに雲泥の差だ。
しかし、馬子の立場に立って一言いわせてもらいたい。「ちょっと待ってよ! それ、ひどいんじゃない?」。推古天皇の治世下でともに政治手腕を振るった馬子と厩戸王。今までは、豪族を抑えながら天皇を中心とする中央集権体制をつくろうとした厩戸王と、既得権益を守りたい馬子は対立し、やがて政争に敗れた厩戸王は斑鳩に隠棲したと見る向きが一般的だった。
だが、厩戸王が推古天皇から国政の統括を任せられたと伝わる年齢は20歳頃。天才伝説が本当だったとしても、そんな若輩のリーダーに海千山千の豪族たちが素直に従うはずがない。一方の馬子は、大ボスとして君臨する経験豊富な40代頃のはず。彼の協力なくして政策が実現できたはずがない。そのため近年は、晩年まで2人は良好な関係であり、政策の主体は天皇と馬子、厩戸王はそれをサポートする立場だったともいわれている。
実際に推古天皇も馬子の働きぶりを評価していたらしい。612(推古天皇20)年の正月、宮中で新春を祝う宴が開かれた。その席で馬子が天皇支配の永遠を言祝ぐ歌を奏上すると推古天皇はこう返答したという。「あなたを馬にたとえるなら、あの日向国(現在の宮崎県および鹿児島県の一部)の名馬。太刀でいえば、有名な呉国の名刀でしょう。それならば、私が重用するのは当然のことです」。このとき馬子は、晩年だったはず。もし、彼が真に国益を害する人物だったとすれば、こんな手放しの礼賛はありえない。
では、なぜ馬子が悪人として語られることになったのか――。それはひとえに、これらの記録が『日本書紀』に記されたものであるという点に尽きる。歴史はつねに勝者によってつくられるもの。何を隠そう、『日本書紀』の編纂を指揮した藤原不比等は、「乙巳の変(645)」で中大兄皇子(のちの天智天皇)とともに蘇我氏を討った中臣鎌足の息子なのだ。
敗れた蘇我氏をよく書くはずがない。
そんな馬子がこの世を去ったのは626年。70代だったともいわれる。その墓と推測されている石舞台古墳は、一辺が50~55メートルに及ぶ日本最大級の方墳。王墓にも匹敵するその大きさが語るものは何なのか。
※本記事は、「誰も知らない歴史」研究会編著『日本史・あの人の意外な「第二の人生」』より一部を抜粋編集したものです。
参考文献
『学び直す日本史〈古代編〉』日本博学倶楽部 著(PHP研究所)
更新:11月21日 00:05