2017年06月12日 公開
2022年07月14日 更新
伝飛鳥板蓋宮跡
皇極天皇の宮殿で中大兄皇子(天智天皇)、中臣鎌足らによって蘇我入鹿が暗殺された乙巳の変の舞台。
皇極4年(645)6月12日、中大兄皇子、中臣鎌足によって蘇我入鹿が暗殺されました。世にいう乙巳の変で、大化の改新の始まりとして知られます。今回は、中臣鎌足を中心にこの事件についてみていくことにしましょう。
中臣鎌足は推古天皇22年(614)、中臣弥気(なかとみのみけ、御食子〈みけこ〉とも)の子に生まれました。中臣弥気は飛鳥時代の朝臣で、鹿島神宮の神官として東国に赴任していた可能性も指摘される人物です。鎌足は若い頃から中国の兵学書や儒教を学んでいたといいます。その後、当時の政界の実力者であった蘇我氏を倒すことを目論み、旗頭となる皇族の擁立に動きました。最初は皇極天皇の弟である軽皇子(後の孝徳天皇)の推戴を考えますが、蘇我氏打倒の旗頭としては心もとなかったのか、次に天皇の息子・中大兄皇子に接近を図ります。しかし下級官吏にすぎない鎌足には、なかなか機会がありません。
その2人を結びつけたきっかけとしてよく知られる伝承が、蹴鞠です。 皇極3年(644)、法興寺の槻(つき、ケヤキの古名)の木の下で蹴鞠の会が開かれました。それに参加した中大兄皇子は、蹴ったはずみで沓が脱げて飛んでしまいます。 それを拾い上げて恭しく捧げたのが、鎌足でした。中大兄皇子も鎌足に敬意を払い、膝を屈して沓を受け取ります。意気投合した2人は以後、打倒蘇我氏の計画の盟友になりました。時に鎌足31歳、中大兄皇子19歳。
翌皇極4年(645)6月12日、朝鮮半島の三韓からの使者を迎えるため、蘇我入鹿は飛鳥板葺宮に参内しました。 そして皇極天皇と蘇我入鹿が見守る中、蘇我倉石川麻呂が上奏文を読み上げます。 実は石川麻呂は鎌足、中大兄皇子と通じており、この日、上奏文を読み上げている間に彼らが入鹿暗殺を決行する手筈であることを知っていました。しかし中大兄らは現われず、上奏文を読む石川麻呂は不安と緊張から肩が震え始めます。その異常な様子に気づいた入鹿は、「なぜ震えているのか?」と石川麻呂に問いかけました。すると石川麻呂はしどろもどろになりながら、「お上の御前であるので、恐れ多いのです」と答えます。 中大兄が踏み込んだのは、その瞬間でした。続いて2人の刺客が飛び込み、入鹿に斬りつけます。驚いた入鹿は天皇に「私に何の罪があるのでしょうか。お裁きください」と声を上げると、天皇は大いに驚いて、息子の中大兄に理由を問いました。中大兄は「入鹿は皇族を滅ぼし、皇位を奪わんとする者です」と答え、天皇は殿中に下がります。ほどなく入鹿は首をはねられ、その遺体は雨の降る庭へと放り出されました。政治の実権を握る入鹿が討たれ、翌日には父親の蘇我蝦夷も自害し、蘇我本宗家はここに滅びました。
ただしこれまで、天皇を凌ぐ権勢を誇り、専横を極めた蘇我氏を討つための英雄譚めいて語られてきた乙巳の変は、必ずしもそうではなかったという見方が最近は有力になってきています。たとえば、蘇我氏は大陸や半島の情勢を見極め、百済重視の外交路線を改めるべきではないかと新たな方針を打ち出そうとしていたのに対し、中大兄皇子や鎌足らは従来路線を堅持すべきとし、蘇我氏を実力で排除して実権を奪ったという見方もあります。 この変の真相については今も諸説あり、いずれを採るかによって蘇我氏と中大兄皇子、そして鎌足の評価もガラリと変わってしまうのが現状でしょう。
その後、鎌足は内臣(うちつおみ)となり、中大兄を補佐して律令制への改革を推進しました。そして死の直前に、天智天皇から大織冠(だいしょくかん、最上の冠位)と藤原姓を下賜されます。享年56。 鎌足は死後、飛鳥の東方にある多武峯(とうのみね)に葬られ、談山神社に祀られました。神社には鎌足像がありますが、伝承では天下に大事件の起こる時、山が鳴動して鎌足像が破裂したといいます。 破裂とはどんな状態なのか、その都度、修理したのか、よくわかりません。ただ鎌足の子、不比等以後、朝廷を藤原氏が一手に握ったわけで、天下の変事とはすなわち藤原氏にとっての変事でもあったはずです。あるいは功臣とされた鎌足の存在は、死後も長らく、藤原氏が政権を握る立場を正当化するものであったのかもしれません。
更新:11月22日 00:05