足利尊氏像
(栃木県足利市)
延文3年/正平13年4月30日(1358年6月7日)、足利尊氏が没しました。鎌倉幕府を倒し、後醍醐天皇の建武の新政に貢献しますが、やがて後醍醐天皇と対立して南北朝時代を招き、室町幕府初代将軍となったことで知られます。
江戸時代後半に尊王思想が強まると、高山彦九郎が足利尊氏の墓を鞭打ちし、幕末には志士たちによって尊氏と息子義詮、孫の義満三代の木像の首が京都の三条河原にさらされるなど、尊氏は天皇に背いた逆賊として扱われました。王政復古で始まる明治時代以降も、逆賊扱いは基本的に変わらず、国定教科書にも「逆臣」と記載されています。
そんな尊氏がようやく再評価されるのは、戦後のことでした。 もっとも尊氏自身は、後醍醐天皇に背いたことを悔やんでおり、突然出家すると言い出したり、合戦でも窮地に陥ると切腹を口走るなど(何度もあります)、かなり人間くさい人物であったようです。
また御曹司として育ったためか大変気前もよく、普段から自分に届けられた進物などは客にすべて与え、合戦後には、功績のあった配下に広い所領をぽんぽん与えてしまったために、各地の守護大名が力をつける一方、足利将軍は弱体化してしまい、戦国時代を招く結果になったともいわれます。
こう書くと南北朝時代を招き、また後の戦国時代への布石を打ったトラブルメーカーのようにも見えてきますが、その気前の良さに多くの武将たちがつき従ったのは事実で、都を追われて九州に落ちてからも、再び勢力を得て東進し、楠木正成や新田義貞といったライバルたちに勝利しました。
その後、常に彼を支えてきた弟の直義と対立すると、それぞれが南朝と手を結んで相手を倒そうとするなど、どうにも収拾のつきにくい混乱を招きます。そして戦に敗れ、直義の武将らが尊氏のもとに乗り込んでくると、「降参人が何をしに参ったか」と尊氏はまるで自分が勝ったかのように振舞って相手方を困惑させ、結果的に味方陣営に多くの者を引き込んでしまうという、奇妙な離れ業(?)を演じました。
尊氏と南北朝時代というものをどう評価すべきかはなかなか難しいものがあり、かの吉川英治も一説に『私本太平記』を執筆したことで体力を消耗してしまったともいわれます。一ついえるとすれば、あの時代の多くの武士たちの要望に応えたのは建武の新政ではなく、尊氏であったということ。筋を重んじて後醍醐天皇のために働く南朝方の武将も少なくなかったですが、それ以上に尊氏と北朝を支持する武士の数が多かったという事実です。人望を集める器量、愛される性格(キャラ)が備わっていたのでしょう。
そして足利尊氏は、実に強運の男であったともいえるかもしれません。 尊氏と親交のあった僧・夢窓疎石は尊氏を評して「将軍は矢石の飛ぶ中においても笑みを浮かべ、欲が少なく、財宝を見ること塵あくたのようであった」と語っています。
更新:12月12日 00:05