2017年07月01日 公開
2019年07月02日 更新
京王線分倍河原駅前に建つ新田義貞像
延元3年/建武5年閏7月2日(1338年8月17日)、新田義貞が討死しました。幕府との戦いで鎌倉を攻略し、南朝方の中心的武将として活躍したことで知られます。
新田義貞の武将としての評価は今でも大きく分かれています。鎌倉幕府内で足利よりもはるかに不利な地位にいながら、見事に鎌倉を攻略してのけ、また足利の大軍を相手に何度も勝利を収めているという肯定的なものと、武将としては凡将で、不甲斐ない戦いぶりが湊川で楠木正成を死に追いやったとする否定的なものです。
義貞は正安3年(1301、前年説もあり)、上野国で新田朝氏の嫡男に生まれました。通称、小太郎。新田氏は八幡太郎義家の四男・義国の長子である新田義重に始まり、義貞は新田本宗家の8代目にあたります。ちなみに足利氏も同祖で、義国の次男・足利義康に始まります。つまり血筋でいえば、義国の嫡流は新田氏でした。ところが義康以来、足利氏が幕府内の源氏一門でかつ有力御家人であり続けたのに対し、新田氏は義重が頼朝の覚えが悪く、幕府内でも重視されませんでした。それが8代目の義貞が無位無官であるのに対し、足利高氏は元服と同時に従五位下・治部大輔に任ぜられ、幕府でも重んじられる立場という差になっています。
この高氏に対するライバル意識が、義貞の生涯を決めたともいえるでしょう。 元弘2年(1332)に楠木正成が千早城で挙兵すると、義貞は幕府の命で攻略軍に参加しますが、病を理由に郷里の新田庄に戻り、翌年5月、挙兵します。後醍醐天皇もしくは護良親王の綸旨を奉じてといわれますが、一方、徴税問題で幕府と対立し、幕府が追討軍を送ろうとしているのを受けて立ったという説もあるようです。いずれにせよ挙兵した義貞は周囲を制圧した上で南下、迎撃する鎌倉幕府軍を小手指ケ原、久米川、分倍河原で破り、5月21日、守りの固い鎌倉に対し、稲村ケ崎を突破することでついに攻略、鎌倉幕府を滅亡させました。
しかしその直前、足利高氏が京都の六波羅探題を襲って、これを滅ぼしています。 幕府討滅の殊勲者である義貞ですが、後醍醐天皇の政権下での論功行賞で、義貞は従四位上・左馬助・播磨介に任ぜられ、一方、六波羅探題を落とした尊氏は従三位・鎮守府将軍・武蔵守、しかも天皇の尊の字を与えられて尊氏と名を改めるなど、その差は歴然としていました。そして位の高い高氏を多くの武士が支持します。義貞は心中穏やかではなかったでしょう。
やがて建武の新政に武士たちが不満を抱き、事態打開を尊氏に期待します。建武2年(1336)、北条高時の遺児・時行による中先代の乱が起こり、尊氏の弟・直義の守る鎌倉が陥落すると、尊氏は天皇の許可を得ずに関東に下り、乱を鎮めました。しかしその後、尊氏は上洛せず、新たな武家政権の基盤固めを始め、これを叛旗と判断した後醍醐天皇は義貞に尊氏追討を命じます。東海道を東下した義貞は、矢作川の戦い、手越河原の戦いで足利直義・高師直軍を破りますが、尊氏が出陣した箱根竹ノ下の戦いで敗れ、京都へ敗走しました。勢いにのる尊氏は翌建武3年(1337)正月、京都に入り、義貞は京都市外で再び戦って撃退。再度、進攻してきた尊氏を楠木正成、北畠顕家と連繋して、西国に追い落としました。さらに義貞はその追撃を図りますが、播磨の赤松円心が足利方に与して白旗城に籠城、義貞は攻略にてこずります。その間に九州で態勢を立て直した尊氏は、大軍を催して陸路と海路から京を目指し、義貞は赤松を下せぬまま、生田の森付近で尊氏の大軍を待ち構えることになります。この時、朝廷から義貞の援軍を命じられたのが楠木正成でした。正成は寡兵で新田軍の近くの会下山に陣取り、自軍に足利勢を引き付けた上で、義貞を京都へ退かせて、自らは奮戦の末に自刃します。
尊氏軍は余勢をかって京都を奪い、後醍醐天皇は比叡山に、義貞は北陸に赴いて態勢を立て直しました。しかし延元3年/建武5年(1338)7月、藤島城を攻める味方の応援に赴く途中、燈明寺畷で偶然に敵と遭遇し、敵の矢を受けて討死しました。享年38ともいわれます。戦いぶりを見ていると、決して凡将とは言い切れませんが、尊氏への対抗意識がすべての基準となったがため、大局に立った戦略を描くことができなかった悲運の武将といえるのかもしれません。
更新:11月21日 00:05