2017年05月22日 公開
2019年04月24日 更新
延元3年/建武5年5月22日(1338年6月10日)、北畠顕家が討死しました。南朝方の若き名将として知られます。
顕家は文保2年(1318)、貴族の北畠親房の嫡男に生まれました。権中納言(当時)の父・親房を後醍醐天皇は篤く信任しており、顕家も4歳にして従五位下に叙位されたのをはじめ、昇進を重ねます。鎌倉幕府が倒れて建武の新政が始まった元弘3年(1333)には、16歳にして従三位陸奥守となりました。その2年前の14歳の時、北山第に行幸した後醍醐天皇が花の宴で自ら笛を吹き、顕家が陵王を舞ったという記録があり、後醍醐天皇から寵愛されていたことが窺えます。
建武元年(1334)、後醍醐天皇の皇子・義良親王を奉じて父とともに陸奥へ下向、多賀城を拠点に陸奥経営を始めました。同年、従二位に叙位、翌年には鎮守府将軍に任ぜられています。 建武2年(1335)、足利尊氏が鎌倉で後醍醐天皇に叛旗を翻して京に迫ると、これを討つべく顕家は陸奥の軍勢を引き連れて南下、僅か3週間で近江まで進出します。そのペースはあの羽柴秀吉の中国大返しを上回るといわれ、まさに神速。そして楠木正成、新田義貞らとともに、足利軍を撃破して京都より追いました。尊氏は一旦丹波に落ち、態勢を立て直して翌年1月、再び上洛しようとしますが、摂津の豊島(てしま)河原でまたも顕家、新田、楠木に敗れ、九州に落ち延びることになります。
同年3月、権中納言、鎮守府大将軍に任官した19歳の顕家は陸奥多賀城に戻りますが、陸奥でも足利方による騒乱が起こり、建武4年(1337)、顕家は拠点を多賀城から霊山に移しました。そして陸奥鎮静に追われる中、後醍醐天皇より上洛要請が届きます。九州から東上した足利尊氏によって、またも京都が奪われたのでした。顕家は再び上洛軍を興して南下、利根川で足利勢を破って新田義貞の息子・徳寿丸(義興)と合流し、義良親王を奉じて足利義詮らの拠点・鎌倉を攻略します。この顕家軍に、後醍醐天皇から恩赦を受けた北条時行(最後の執権・北条高時の息子)の軍勢も加わり、翌暦応元年(1338)1月、鎌倉を発した顕家は東海道を敵と戦いながら美濃へと駒を進めました。
これに対し足利方は土岐頼遠を中心に軍勢を集め、青野原(現・大垣市)で両軍は激突、顕家は足利方を打ち破り、敵主将の土岐が一時行方不明になるほどの大勝を収めました。しかし京都にいた足利尊氏は、青野原の敗報に即座に新手の大軍を差し向けたのに対し、顕家軍は疲弊しており、顕家は新たな戦いを避けて伊勢に赴き、態勢を整えることにします。 危ういところで窮地を脱した尊氏は、高師直に大軍を預け、顕家軍に差し向けました。一方、顕家は伊勢から伊賀、大和へと進みますが、大和の般若坂の戦いで足利方に敗れます。
その後、河内から和泉へと転戦しつつ戦力を回復させ、天王寺に集結。石津・堺浦方面で足利方と戦っていたところへ高師直軍が到着し、5月22日、堺浦で両軍は激突します。顕家軍は健闘しますが、予定していた援軍も間に合わず、ついには手勢200騎となって奮戦した末に討死しました。享年21。この若さで、あたら大器を散らせたことは惜しまれます。
ところで顕家は死の数日前、後醍醐天皇を諫める書状を送っています。それは7カ条から成り、京都ばかりを重視するのではなく地方政治を重んじること、諸国の租税を3年止め、民心を安んじること、官爵の登用は慎重にし、恩賞は公平を期すこと、朝令暮改は避け、余計な者を政治に口出しさせぬことなど、後醍醐天皇にとっては耳の痛いことばかりでした。そして「この諫言を容れて頂けぬ場合、自分は天皇のもとを辞す」とまで、顕家は記しています。先の見えぬ戦いが続く中、せめて後醍醐天皇の政治が、自分が身を捨てるだけの価値のあるものであってほしい、そんな若き顕家の叫びが聞こえてくるようです。
更新:11月22日 00:05