2018年01月28日 公開
2018年12月25日 更新
賀名生皇居跡(奈良県五條市)
正応6年1月29日(1293年3月8日)、北畠親房が生まれました。鎌倉・南北朝期の公卿で、北畠顕家の父親であり、『神皇正統記』を著わしたことで知られます。
北畠親房は正応6年、名門公卿・北畠師重の子に生まれました。北畠氏は村上源氏の流れを汲み、その8代目・中院雅家が洛北北畠に住んだことから、北畠氏を名乗ったといわれます。代々学問をもって天皇に仕えました。
延慶元年(1308)、親房は16歳で公卿に昇進、応長元年(1311)には権中納言に昇進します。後醍醐天皇が即位すると、篤く信頼されて皇子の世良親王の乳父(教育係)を託されました。その後も権大納言に昇り、さらに源氏長者となります。
しかし元徳2年(1330)、38歳の時に親王が他界すると、親房は出家して政治の世界から身を引きました。その後、鎌倉幕府が倒れ、後醍醐天皇の親政が始まった建武元年(1334)以降に政界に復帰しますが、陸奥守に就任した長男・顕家とともに、後醍醐天皇の皇子・義良親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥国多賀城に向かいます。
翌建武2年(1335)、足利尊氏が後醍醐天皇に叛旗を翻すと、親房は東国の軍勢を率いる顕家とともに京へ上り、一時は足利勢を追い落としました。ところが足利尊氏の巻き返しで京都を奪われてしまい、後醍醐天皇は吉野へと逃れて南朝を開き、南北朝時代が始まります。
延元3年/暦応元年(1338)に息子の顕家が北朝方との戦いで討死すると、親房は伊勢方面で南朝方勢力の拡大を図りました。さらに関東に南朝方勢力を拡大すべく、義良親王・宗良親王を奉じて、海路東国に向かいます。 ところが途中、暴風雨にあって船は散り散りになってしまい、親房は親王たちとはぐれて常陸国に上陸します。そして小田氏の小田城を拠点として、以後約5年にわたって、関東・東北の勢力結集に尽力しました。
そして、この期間に執筆したといわれるのが、『神皇正統記』です。吉野朝廷(南朝)の正統性を明らかにした歴史書で、天皇と公家(摂関家と村上源氏)が武士を統率するのが、理想の国家像であるとしました。しかしその後、親房は小田氏に見限られることになり、関東での失地回復が成らないまま、興国4年/康永2年(1343)に親房は吉野へと帰還します。
後醍醐天皇はすでに崩御し、義良親王が即位して、後村上天皇となっていました。親房は後村上天皇を支えつつ、南朝の政治面・軍事面における中心的存在となっていきます。しかし正平3年/貞和4年(1348)に四條畷の戦いで楠木正行らが北朝方に敗れると、吉野から賀名生へと落ち、正平9年/文和3年(1354)、没しました。享年62。
なお親房の3男・顕能が伊勢に国司として勢力を張り、戦国武将の北畠具教につながっていくことになります。
更新:11月22日 00:05