2017年08月01日 公開
2023年04月17日 更新
建武2年8月2日(1335年8月27日)、中先代の乱を起こした北条時行を討つべく進発した足利尊氏が、征東将軍に任じられました。尊氏の建武新政からの離反の契機として知られます。
建武2年7月、当時10歳頃であったと思われる北条高時の遺児(次男)・時行が信濃において、諏訪氏や滋野氏に擁立されて挙兵しました。時行の軍勢は足利方の信濃守護・小笠原貞宗を破ると、勢力を拡大しながら武蔵国に入り、鎌倉将軍府を目指します。7月20日頃には女影原で渋川義季、岩松経家らの軍を破り、続いて小手指原で今川範満を、さらに武蔵府中で下野守護小山秀朝を撃破。そして井手の沢(東京都町田市)で鎌倉を出陣して迎撃した足利直義(尊氏の弟)軍をも破りました。時行の勢いに、直義は鎌倉から逃れます。その際、土牢に幽閉していた後醍醐天皇の皇子・護良親王を、家臣に命じて殺害しました。
7月25日、時行軍はついに鎌倉に入り、鎌倉幕府滅亡以来2年ぶりに、北条氏が鎌倉を回復します。さらに時行軍は足利直義軍を追撃し、駿河国手越河原で破りました。この事態に、足利尊氏は後醍醐天皇に対し、時行追討の許可と総追捕使及び征夷大将軍の役職を要請します。これらは武家政権を開くのに必要なものでもありました。しかし後醍醐天皇はこれを認めず、尊氏は天皇の許しを得ないまま、軍勢を率いて関東に下向します。天皇はやむなく8月2日、「征東将軍」の称号を尊氏に与えました。
尊氏は弟の直義軍と合流すると、遠江国橋本、小夜の中山、駿河国清見関、箱根、相模川などの戦いで時行軍を立て続けに破り、鎌倉奪還を果たします。 結局、時行が鎌倉を占領できたのは、僅か20日間ほどでした。 この乱を中先代と呼ぶのは、時行が先代(北条氏)と後代(足利氏)の中間にあたるという意味であるとされます。 9月27日、尊氏は鎌倉において、中先代の乱鎮圧に功績のあった者たちに対して、自ら恩賞の分配を行なうための袖判下文(そではんくだしぶみ)を発給します。明らかに建武新政からの逸脱でした。
さらに尊氏は、京都からの上洛命令も無視し、ここに建武政権からの離反の意志を明確に示すことになります。南北朝の動乱の始まりでした。
更新:12月13日 00:05