2017年07月20日 公開
2019年07月02日 更新
正平23年/応安元年7月21日(1368年9月3日)、新田義宗が戦死しました。新田義貞の3男で、兄・義興とともに関東、越後で足利方と戦ったことで知られます。
義宗の生年は諸説ありますが、ここでは元徳3年/元弘元年(1331)としておきます。義宗には二人の兄がいますが、長兄の義顕は父親よりも先に戦死し、次兄・義興は母親の身分が低かったため、義宗は3男ながら嫡子として扱われました。6歳で昇殿を許されますが、8歳の時に父・義貞が討死。以後は越後の新田一族のもとで成長したといわれます。
正平5年/観応元年(1350)、観応の擾乱と呼ばれる混乱が始まります。将軍足利尊氏と弟・直義の争いでした。足利政権の中で南朝方を追い詰めた執事の高師直の発言力が高まる一方、直義は劣勢となり、両者の争いの末、直義は尊氏の庶子・直冬を立てて挙兵、しかも南朝と結びました。ここに尊氏・師直と直義・直冬・南朝の衝突となり、合戦の末に尊氏は敗れ、師直は討たれます。結果、直義は足利政権に復帰しますが、事態はそれだけではおさまらず、尊氏は直義排除を企て、それを察知した直義が勢力を保持しつつ関東に脱出すると、今度は尊氏が南朝に降伏。その上で関東目指して出陣し、直義を破って降伏させ、直後に直義は急死しました。そして尊氏の南朝への降伏により、北朝は廃され、年号も南朝の正平6年に統一されます。これが「正平の一統」です。
ところがその後、北朝方と南朝方が折り合わず、翌正平7年(1352)、南朝方の北畠親房の企てにより、南朝方による京・鎌倉同時奪還作戦が実行されます。その時、上野で挙兵したのが22歳の新田義宗でした。兄・義興、従弟の脇屋義治を従え、宗良親王を奉じ、かつて足利直義に味方した武士たちを味方に取り込みます。武蔵国金井原(東京都小金井市前原町)では尊氏軍を破り、鎌倉まで攻め込んで尊氏の子・基氏を追い、鎌倉奪還に成功するのです。それはあたかも父・義貞の鎌倉攻略を再現したかのような勝利でした。
しかし、尊氏のしぶとさは尋常ではなく、鎌倉から逃れた基氏と石浜城(東京都台東区)で合流すると、鎌倉を兄・義興に任せて武蔵北部に布陣する義宗と、小手指ヶ原、入間河原、高麗原付近で戦い、義宗は敗れて信越方面に後退します。この事態に義興、脇屋義治は鎌倉を出て、相模の河村城(足柄上郡山北町)で敵に備えて対峙。この一連の合戦は武蔵野合戦と呼ばれます。
その後、正平13年/延文3年(1358)に足利尊氏が没すると、義宗は好機と見て東国の味方を鼓舞しますが、鎌倉侵攻を図った兄・義興が足利基氏によって武蔵国矢口の渡しで謀殺され、勢いを削がれました。それから10年後の正平23年/応安元年(1368)、尊氏の子・義詮、基氏の死去に伴い、義宗は再び東国の味方に呼応して脇屋義治とともに越後で挙兵しますが、上野国沼田荘で敵の矢を右目に受け、うつぶせになって落馬、壮絶な戦死を遂げたといわれます。享年37。その地には「うつぶしの森」という地名が残ります。一方で、武蔵国所沢の薬王寺に逃れ、再起かなわぬと知って出家、討死した一族郎党を弔って一生を終えたとする異説も存在します。
いずれにせよ、じつに混乱した時代でした。
更新:11月22日 00:05