清正は立花宗茂のために、自分の領国内の玉名郡高瀬というところに家を構えてやった。ついてきた数百人の家臣たちも近隣に住んだ。清正は家臣用だといって1万石を拠出した。
徳川家康は西軍に加担していた島津家の態度を憎み、一時はこれを征伐しようと企てた。このとき、加藤清正と黒田如水(孝高、官兵衛)に九州の大名たちを連合軍として編制することを命じた。清正は喜んで立花宗茂にこのことを告げた。
そして、
「あなたが先鋒となって活躍されたらいかがか? 徳川殿もそうすれば、しかるべき扱いをしてくださるだろう」
と告げた。
しかし、宗茂は首を横に振った。
「昔日の島津家は、確かにわが主・大友家の敵でした。しかし、関ヶ原の合戦では共に秀頼公のために戦おうと誓った友です。情勢が変わったからといって、友情を裏切ることはできません」
かえって清正のほうが恥をかく結果になった。が、清正はいよいよ宗茂が好きになった。
やがて清正は、
「いま、お住まいになっている玉名郡を全部さしあげる。わたしの客分になってはいかがか?」
と誘った。
宗茂は首を横に振った。
「加藤殿のご厚誼は非常にありがたく思っております。わたしだけでなく、家臣までこうして居候としてお世話になっていることを常々心苦しく思っております。そのことはどうかお忘れください。ご厚情だけはありがたくお受けします」
加藤清正の好遇が高まれば高まるほど、立花宗茂は逆にいづらくなってきた。そこで2年後の春、こう申しでた。
「京へ出ようと思います。賑やかな都ですから、あるいはわたしの身の振り方が決まるかもしれません」
清正も近頃の宗茂の気持ちはよく知っていた。自分があまりしつこく勧めたので、宗茂も鬱陶しく思ったことだろうと反省していた。
「わかりました。しかし、ご家来はどうなさるおつもりか?」
「全員を連れていくわけにはまいりません。20人ほどにしぼろうと思います」
この話を聞いた宗茂の家臣たちは大騒ぎになった。わたしも行く、わたしもお連れください、と皆が嘆願した。
宗茂は首を横に振って、
「20人ほどしか連れていけない。誰と誰が供をしてくれるかは、おまえたちに話しあいで決めてもらいたい」
結局、20人の家臣が選ばれ、大半の者は残ることになった。
清正は、
「残ったご家来は、全員いままでどおりわたしがお世話をします。ご安心ください」
といった。
宗茂は感謝した。清正は多額の餞別金を贈った。
京都に出た宗茂は、やがて清正からもらった金を使い果たした。そうなると、ついてきた20人の部下が、虚無僧になったり人夫になったり、あるいは物乞いになったりして金を稼いで宗茂を養った。宗茂は宿舎にしているある寺の一室で、毎日本を読みつづけた。
あるとき、家臣たちが夕暮れになって食べるつもりの飯を藁の上に干しておいたが、宗茂には殿様気質が残っていたから、雨になっても取りこむ才覚がなかった。しかし、家臣たちは怒らなかった。
「殿様らしい。もし米を取りこむようないじましいことをなさったら、われわれは逆に見捨ててしまったことだろう」
と喜びあった。
やがて宗茂は江戸に出た。ここでも寺の世話になった。ついてきた家臣たちは、相変わらずいろいろな仕事に就いて宗茂を養った。このことが、たまたま時の2代将軍・徳川秀忠の耳に入った。秀忠はこういう話が好きだったから、かねてから立花宗茂とその家臣団の動向には注目していた。それが自分の膝元である江戸にやってきた。主従で美しい生き方をしている。秀忠は宗茂を江戸城に召しだした。5千石の禄を与えて自分の相伴衆にした。話し相手だ。
そして、奥州(福島県)棚倉の1万石の大名にしてやった。宗茂は喜んだ。
「これで故郷から何人かの家臣を呼び寄せることができます」
そのいい方に秀忠はまた感心した。
1万石の大名で雌伏すること十四年、秀忠はやがて元和6年(1620)に、柳川藩主だった田中氏に相続人がいないことを理由に、立花宗茂を故郷に戻してやった。与えた禄は11万石である。関ヶ原の合戦で徳川家康に敵対した大名で、いったん没収された元の領地に、しかもほぼ同じ禄で戻ったというのは立花宗茂一人である。
しかし、そこまでいくのには、加藤清正との美しい友情と家臣たちとの堅固な結びつきの発露があった。立花宗茂は寛永19年(1642)11月25日に74歳で死んだ。
※本稿は、童門冬二著『歴史人物に学ぶ 男の「行き方」 男の「磨き方」』より、一部を抜粋編集したものです。
更新:11月23日 00:05