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立花宗茂と第二次晋州城の戦い

2015年08月29日 公開
2023年01月16日 更新

『歴史街道』編集部

文禄元年(1592)4月、秀吉の明国制圧の野望により、日本軍20万は朝鮮へ侵攻しました。「文禄の役」です。
碧蹄館の戦いで明・朝鮮の大軍を撃退した日本軍は、第2次晋州城の戦いに臨みます。城に迫る明の大軍に、立花宗茂・小早川秀包らは敵の10分の1の手勢で挑みます。
 

明の援軍との衝突

文禄2年(1593)1月26日、漢城北方の碧蹄館の戦いで日本軍が明の大軍を撃退したことにより、講和交渉が進展。日本軍の主力は漢城から釜山付近へと南下し、これによってそれまで不安であった補給問題は解消されることになりました。

すると豊臣秀吉は、朝鮮在陣の諸将に、慶尚道の晋州城攻略を命じます。晋州城は釜山と漢城を結ぶルートから外れていたため、当初は攻略対象ではありませんでしたが、それでも前年10月、長谷川秀一、細川忠興ら1万数千が攻め、落とすことができませんでした(第一次晋州城の戦い)。

この時、城を守ったのが牧司・金時敏で、金は鉄砲傷がもとで落命しますが、日本軍は金の手腕を高く評価しました。そして彼の官職「牧司(現地の発音は〈モックサ〉)」から晋州城を「木曽〈もくそ〉城」と呼んでいたのです。

秀吉は朝鮮半島南部に未攻略の城があることを許さず、総大将の宇喜多秀家に再度晋州城攻撃を命じます。秀家は大手を加藤清正・黒田長政ら2万5,000、搦め手を伊達政宗、浅野幸長ら1万数千に攻めさせることにしますが、これに対し、明軍が援軍を組織しました。

すなわち明の劉廷〈りゅうてい〉(ていは糸偏)配下の琳虎〈りんこ〉率いる4万で、晋州城下に迫ります。攻城か、援軍との戦いかで日本軍が評定を行なう中、「及ばずながら、我が手勢が明の援軍にあたりましょう」と進言したのが、立花宗茂(当時は統虎〈むねとら〉)でした。

宇喜多秀家はこれを了承し、宗茂に高橋統増〈むねます〉(宗茂の実弟)、小早川秀包〈ひでかね〉(宗茂と義兄弟)を加えた4,000を、これにあてます。宗茂は晋州城の南西方向に20里進み、布陣しました。

6月13日、琳虎率いる4万が来襲。宗茂は200人のほどの兵を敵近くに出して挑発しますが、敵はこれに応じず。さらに夜襲の機を窺いますが、敵は警戒が厳しく、つけ入る隙がありません。

そこで宗茂は秀包らと相談し、軍勢を20余町(2km余り)後退させた上で5隊に分け、各所に埋伏させます。翌14日早朝、日本軍が消えていることを知った明軍は、恐れをなして逃げたと判断し、追撃開始。先陣のおよそ7,000は、進んでも日本軍の姿のないことに油断し、陣形を緩めました。

その機を捉えて、立花、高橋、小早川らの伏兵が一斉に襲いかかります。虚を衝かれた敵先陣は数の上では優っているにもかかわらず、態勢を立て直せずに壊滅しました。鮮やかな「釣り野伏」というべき戦法です。

しかし、先陣を失っても明軍の兵力は圧倒的で、およそ3万3,000が4,000の日本軍に迫りました。するとまず小早川秀包率いる1,000が、敵の第二陣1万7,000に挑みます。もちろん敵陣深くは攻めこまず、頃合いを見て宗茂の先陣800と交代。

立花の先陣には森下備中・内匠〈たくみ〉の兄弟がいました。彼らは先頭に立って戦いますが、やがて弟の内匠が草摺〈くさずり〉の外れを深く射られました。内匠が草摺を外して捨てていると、兄の備中が駆け寄って言います。

「傷が浅ければ退け。傷が深ければ、敵中に駆け入って死ね」。内匠は「兄者、心得ておる」と言うなり、主従8人で猛然に敵陣に斬り込みました。それを見た兄の備中は、弟を見捨てることができず、自らも手勢30人を連れて突撃します。

追ってきた兄に内匠が「兄者、下がって殿のおそばにいてくだされ」と言うと、備中は「どうして退かれようか」と喚き、敵を斬りまくります。その様子を注視していた立花宗茂は、采を振るいました。「備中を討たすな、者ども、進めっ!」

宗茂の号令に、小野和泉、丹〈たんの〉八左衛門ら第二陣およそ1,000が攻めかかり、勢いで敵を圧倒します。立花勢の奮戦を突破口として、これに高橋勢、小早川勢が次々と加わり、ついに敵の第二陣を突き崩しました。

かくして先陣、第二陣が崩れた敵の軍勢は戦力が半減、それ以上、攻めることはできず、後退していきます。宗茂らは見事に十倍の敵を撃退、これを河東の戦いと呼びます。
 

晋州城をついに攻略

明の援軍を立花らが撃退した報せは、すぐに晋州城にも伝わり、日本軍は勇み立ち、籠城する朝鮮軍は激しく落胆しました。

6月22日、日本軍は本格的に城を攻囲し、攻城用の高櫓の建設や、堀の水を抜く土木作業を進め、24日には亀甲車を用いて大手櫓下の石垣の隅石を掘り始めます。城方はこれに、熱した砂や松明を落として応戦しました。

27日には宇喜多秀家が降伏勧告を行ないますが、敵はこれを拒否。29日、加藤清正・黒田長政らの亀甲車がついに石垣の隅石を掘り起こし、大石が抜けたために大手の櫓が崩れ落ちました。城方の敵は驚き、大騒ぎになります。

その機を捉えて、加藤勢の森本儀大夫、飯田覚兵衛、黒田勢の後藤又兵衛らが次々と城内に突入、他の軍勢もこれに続きました。大手からは宇喜多、小西、伊達、浅野勢、搦め手からは毛利秀元、小早川、鍋島、立花勢が攻め入り、城内を制圧します。

敵の守将である牧司・徐礼元は宇喜多家の岡本権之丞に討ち取られ、城兵は討たれるか、捕らえられました。

秀吉は晋州城攻略を賞し、加藤、黒田ら戦功者に感状を与えます。その後、日本軍は全羅道制圧に乗り出し、明・朝鮮連合軍を破りますが、文禄の役終結までに目立った大きな戦いはなく、第二次晋州城の戦いが講和に至るまでの最後の大きな戦いとなりました。

立花ら将兵に日本への帰国が許されるのは、文禄4年(1595)のことです。

しかし、秀吉が望んだ条件は実際の交渉の場には出されぬまま、講和が結ばれたため、後にそれを知った秀吉が怒り、慶長の役へとつながることになります。

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