2018年03月22日 公開
2019年02月27日 更新
慶長6年3月22日(1601年4月24日)、毛利秀包が没しました。毛利元就の9男で、武勇に秀でていたことで知られます。
永禄10年(1567)、秀包は毛利元就の9男に生まれました。幼名、才菊丸。長兄隆元はすでに他界し、次兄吉川元春は37歳、三兄小早川隆景は34歳ですから、両川の兄とは親と子ほど年が離れています。
文亀2年(1571)、5歳の時に備後の国人・大田氏の家に入り、大田元綱と名乗りました。 さらに天正7年(1579)、13歳の時に三兄小早川隆景の養子となり、元服後に小早川元総と名乗ります。隆景は秀包の武勇の資質を見込んで、後継にしたとされます。
天正11年(1583)、毛利氏が羽柴秀吉と和睦すると、人質として吉川広家(甥になります)とともに、大坂に送られました。秀包は秀吉から厚遇され、「藤」「秀」の字を与えられて、小早川藤四郎秀包と名乗ることになります。従五位上・治部大輔にも任じられました。
人質とはいえ、秀包は小姓のように秀吉に近侍していたのでしょう。天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦にも秀吉に従って出陣しました。時に秀包、18歳。翌天正13年(1585)には河内1万石の大名となり、さらに四国征伐の功で、伊予宇和郡大津城3万5000石を得ます。天正14年(1586)から始まる九州征伐には、養父・小早川隆景とともに出陣。豊前香春嶽(かわらだけ)城を攻略し、戦後、筑後に7万5000石を得て久留米城を築きました。この頃、同じ年の立花宗茂と知り合い、親友となります。
また豊後領主・大友宗麟の娘、桂姫と結婚。その縁もあって、洗礼を受けました。洗礼名は「シマオ・フィンデナオ」です。さらに肥後国の国人一揆が起こると総大将として出陣、田中城を立花宗茂とともに落として武功をあげました。秀包は戦勝祝いの席で、宗茂と義兄弟の契りを結んだといいます。 天正17年(1589)、侍従に任官し、「羽柴久留米侍従」と称されました。翌年には小田原征伐に参戦、ここでも活躍をしたといわれます。
文禄元年(1592)の文禄の役には1500の兵を率いて参陣。翌文禄2年(1593)の碧蹄館の戦いでは、実兄の毛利元康(元就8男)とともに5000の兵を率い、小早川隆景、立花宗茂、宇喜多秀家ら4万1000で、明・朝鮮連合軍15万(一説に)を撃退する殊勲を挙げました。この戦功により5万5000石を加増されて、筑後久留米13万石を領することになります。
さらに同年の第二次晋州城攻防戦では、4万で襲来した明・朝鮮連合軍を4000で立花宗茂とともに撃退しました。戦上手で知られる宗茂とコンビで目覚しい働きをしている点を見ても、秀包の実力のほどが窺えるでしょう。
文禄3年(1593)、豊臣秀吉は養子の木下秀俊を毛利本家の後継者にと望んだため、小早川隆景が小早川家の跡取りとしてこれを引き取りました。 当然、養子の秀包は廃嫡となります。しかし秀包は文句の一つも言わずに潔く身を引き、別家を立てました。なお木下秀俊が、小早川秀秋となります。慶長2年(1597)の慶長の役においても、秀包は竹島城や星州谷城で敵の攻撃を防ぎ、大いに活躍しました。
慶長5年(1600)関ケ原の戦いでは西軍に属し、兄の毛利元康、立花宗茂らとともに、京極高次の大津城を攻め、重臣を何人も失う猛攻の末に、これを攻略しました。しかし、よく知られるように、直後に関ケ原本戦で西軍が敗れます。この時、西軍の敗因となったのが、吉川広家の内通と、小早川秀秋の寝返りという身内の裏切りであったことを知った秀包は、どんな思いであったのでしょうか。
秀包は立花宗茂とともに大坂城に入り、主戦論を唱えますが、西軍総大将に祭り上げられていた甥の毛利輝元が東軍に降伏し、大坂城を退去。やむを得ず秀包も国許に戻ることにします。しかし10月10日、西軍として戦った久留米小早川家は改易に処され、その数日後、僅かな手勢のみで久留米城を守っていた家臣たちも降伏しました。
所領を失った秀包は長門国内に所領をあてがわれ、移住します。秀包の小早川秀秋に対する怒りは鎮まらず、小早川姓を捨て、毛利姓に復しました。その後、京都の大徳寺で出家しますが、帰国後、体調を崩し、翌慶長6年(1601)、下関で没します。享年35。義兄弟である立花宗茂も同じく改易・牢人の身でしたが、その後の長い人生と柳川への返り咲きを思うと、秀包の生涯は余りに短く、惜しまれます。
更新:12月10日 00:05