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碧蹄館の戦い~戦国武将「オールジャパン」が明の大軍に鮮やかな逆転勝利

2018年01月25日 公開
2018年12月25日 更新

1月26日 This Day in History

今日は何の日
 

文禄の役・碧蹄館の戦いが起こる

今日は何の日 文禄2年1月26日

文禄2年1月26日、碧蹄館(へきていかん、ビョクジェグァン)の戦いが起こりました。豊臣秀吉の朝鮮出兵である文禄の役において、日本軍と明・朝鮮連合軍との歴史に残る戦いです。

この戦いを一言で説明すると、立花宗茂、小早川隆景、黒田長政、宇喜多秀家、石田三成、大谷吉継など、多士済々な戦国武将たちが、おのれの家名や所領のためではなく、「オールジャパン」のメンバーとして一丸となって戦い、勝利を得たと表現することができるかもしれません。

前年4月に朝鮮に渡海した15万余りの日本軍陸戦部隊は破竹の進撃を続けましたが、年が改まった1月7日、小西行長、宗義智らが拠る平壌城が、李如松率いる明・朝鮮連合軍の攻撃で陥落。李の連合軍は15万の大軍(異説あり)で南下。これに対する漢城周辺の日本軍は4万1000と劣勢を余儀なくされます。

しかし日本軍には歴戦の名将が控えていました。「籠城か」「迎撃か」で軍議は一時紛糾しますが、立花宗茂は「日本人として恥かしい戦い方ができようか」と迎撃を主張。これに小早川隆景ら諸将が賛同し、石田三成らが唱えた籠城策を覆します。

この時、日本国内で敵同士として戦ったこともある武将たちに、「自分たちは日本国の武士である」という意識が芽生えたのかもしれません。危機的な決戦に、彼らは一致団結して立ち向かいます。

しかし、明軍は精強な騎馬部隊と大砲などの重火器部隊を擁し、何より平壌での勝ちに乗じた勢いのままに攻めてきます。日本軍の劣勢は覆うべくもなく、諸将は決死の覚悟でこの決戦に臨みます。ただ、日本軍には何にも代え難い最大の武器がありました。それは、群雄割拠の戦国時代で数多の合戦をくぐり抜けてきた豊富な「経験」でした。

 1月26日、まず3000の立花宗茂が先鋒となり、連合軍の第一陣、第二陣を敗走させます。さらに立花勢に小早川、毛利元康・秀包、宇喜多秀家らを加えた4万1000が碧蹄館へ進出、敵の本隊と衝突します。当初、数で勝る敵に押され、日本軍はじりじりと後退します。しかし、敵がぬかるみに入ってきたのを見計らい、遊軍となっていた立花勢が急襲をかけると、敵は大混乱に陥ります。日本軍はこの機に乗じて一斉反撃に転じ、敵勢約6000を討ち取り、敵将・李如松は戦意を失って退却。こうして碧蹄館の戦いは、日本軍の奇跡的な勝利となったのです。

この勝報に接した加藤清正は、「先陣をつとめたのは、立花左近将監(宗茂)に違いない」と語ったといいます。

碧蹄館の戦いの後、朝鮮出兵は秀吉の死によって終結。武将たちは帰国します。やがて朝鮮の地で、日本国の武士としての矜持を胸に共に戦った武将たちは、東西両軍に分かれて、関ケ原合戦で相まみえることとなるのです。

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