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小早川隆景と立花道雪

2015年07月27日 公開
2023年01月16日 更新

『歴史街道』編集部

慶長2年6月12日(1597年7月26日)、小早川隆景が没しました。毛利元就の3男で、智謀の将として知られます。

文禄2年(1593)1月、朝鮮出兵における碧蹄館〈へきていかん〉の戦いでは、隆景は重鎮として、見事な智略で明・朝鮮連合軍の大軍を打ち破りました。

この時、日本軍諸将との軍議において、若い立花宗茂を先鋒に推したのが隆景でした。その理由として、宗茂の隠れもない武勇もさることながら、宗茂の器量を見込んで婿養子にした武将に、隆景が深い畏敬の念を抱いていたことが大きかったといわれます。

その武将とは、立花道雪。大友宗麟の家臣で、前名は戸次鑑連〈べつきあきつら〉。大友家きっての名将というべき存在でした。今回は小早川隆景と立花道雪が相まみえた、多々良〈たたら〉川の戦い(多々良浜の戦い)をご紹介してみます。

 

吉川元春・小早川隆景、北九州へ進攻

毛利軍4万の大軍が関門の海を渡り、門司城を落とし、豊前小倉に着陣したのは、永禄12年(1569)3月のことでした。大友宗麟が領する豊前、筑前、とりわけ博多津の奪取をねらってのことです。

北九州は豊後大友氏と、かつて山口に本拠を置いた大内氏が争った地でした。その後、大内氏が家臣の陶氏に滅ぼされ、その陶氏を毛利元就が討って旧主の仇をとったということで、毛利氏は大内氏の後継者を自任するようになります。

そして毛利氏は、北九州の勢力を回復しようと筑前国の国衆を味方につけ、大宰府の宝満山城主・高橋鑑種〈あきたね〉と、立花山城主・立花鑑載〈あきとし〉がこれに応えて、永禄11年(1568)に大友氏に叛旗を翻しました。

毛利氏は挙兵した立花らを支援すべく8,000の兵を送り、さらに筑前の国衆がこれに加わって、反大友の気勢を上げます。一方、大友軍は戸次鑑連、臼杵鑑速〈うすきあきすみ〉、吉弘鑑理〈よしひろあきなお〉ら1万が鎮圧に向かいました。

そして立花山城周辺で大友軍と立花・毛利軍との戦闘が行なわれますが、戸次が立花の家臣を調略したことで城は落ち、毛利勢は長門国に逃げ去り、立花鑑載は自刃して果てたのです。立花山城には津留原〈つるはら〉ら大友家の部将が入って警備しました。

その後、肥前の龍造寺隆信を攻めるため、戸次ら立花山城を攻略した大友家の諸将は肥前に向かいます。その隙をついて毛利氏は、4万の大軍で再び北九州に進攻。まずは立花山城奪還、次いで博多津奪取を目指しました。これが冒頭の永禄12年3月のことです。

毛利の主力を率いるのは吉川元春、小早川隆景のいわゆる「毛利の両川〈りょうせん〉」の兄弟。また73歳の毛利元就も17歳の孫・輝元を連れて長門国長府まで出張り、督戦します。元就は「筑、豊を手に入れ候わずば、人数を引くまじ」という決意を固めていました。

一方、大友方にすれば、もし立花山城を奪われ、門司、立花、博多津、大宰府のラインが毛利の手中に落ちれば、豊前、筑前の大半を失う由々しき事態となります。立花山城を警備する津留原らからは、敵大軍に囲まれつつあるという急報が続々と届いていました。

実際、吉川、小早川らは立花山の山麓を取り囲むように、4万の大軍を布陣します。これに対し大友宗麟は、肥前で戦闘中の戸次らに龍造寺と和平を結ばせると、急ぎ軍勢を立花山へと転戦させました。そして戸次勢はじめ3万5,000が多々良川を挟んで、毛利軍と対峙します。

両軍の間で何度も小競り合いが行なわれますが、戦局は動きません。しかし、毛利軍に糧道を断たれ、さらに水脈まで経たれた立花山城の将兵は、次第に兵糧不足と渇水に苦しみます。津留原らは忍びを使って宗麟に、餓死を待つか、打って出るかの判断を仰ぎました。

宗麟は津留原らの窮状を見かね、ひとまず開城して後図を期すよう命じます。永禄12年閏5月、立花山城は開城し、毛利軍に降りました。

しかしその直前の5月18日、大きな戦いが起きています。多々良川の戦いの中でも特筆される、「多々良浜合戦」「長尾合戦」とも記録される戦いでした。

 

多々良川合戦のハイライト、戸次鑑連の猛攻

この日、吉川・小早川の毛利軍4万余りは15段の備えの陣形を構築、先陣は多々良川を渡り、箱崎松原にまで進出します。

一方、戸次鑑連を主将とする大友軍は、臼杵、吉弘らの部将とともに1万5,000の軍勢を3手に分けて先鋒とし、両備えに豊前・豊後、筑前・筑後の兵2万を配置しました。

口火を切ったのは、戸次鑑連でした。戸次は毛利軍の前衛部隊に対して、猛烈な攻撃を仕掛けます。特に猛攻にさらされたのが安芸の熊谷、備後の楢崎、多賀山、小早川配下の椋梨といった面々でした。

吉川・小早川の両将は各陣地の守りを固めるよう命じますが、戸次の猛攻は桁外れで、楢崎、多賀山の陣が崩れかねない危機に陥ります。それを見た小早川隆景が自ら駆けつけて支え、両陣は辛うじて崩壊を免れました。

すると戸次は、手薄となった小早川隊左翼の長尾の陣を新手に急襲させます。戸次隊の凄まじい攻撃に小早川隊左翼はたじたじとなり、東に向かって後退し始めました。

この小早川隊左翼の後退は毛利諸隊に影響を及ぼし、結局、毛利軍そのものが戸次ら大友軍に押されて、およそ320mも後退してしまうことになるのです。

「退くな、支えろ」と懸命に踏みとどまろうとする小早川隆景の眼に、異様な光景が飛び込んできます。敵の陣で采配を振るう主将は輿に乗り、その輿を担ぐ兵たちに常に声を励まして下知をしていました。

「進め! わしの輿を敵の真ん中へかき入れよ。命が惜しくば、その後に逃げろ!」。下知を受けた将兵は闘志をむき出しにして、敵陣へ突入。さらに「大将を討たせてなるか」と大友勢は一丸となって、毛利勢を圧倒していたのです。

この輿に乗った人物こそ、戸次鑑連でした。戸次はこの時、57歳。一説に35歳の時、御座所に落雷があり、戸次は感電して下半身不随となりますが、落雷の閃光の中に異形の姿を見た戸次は、愛刀千鳥で雷神を斬ったといいます。以来、彼の愛刀は「雷切」と呼ばれました。

足が不自由であることをものともせず、大友軍の中でも名将の誉れ高く、敵からは「鬼道雪」と恐れられたのが、道雪戸次鑑連でした。この日、大友軍は毛利軍に大きな打撃を与え、さしもの毛利軍も以後は積極的進攻ができなくなり、戦線は膠着します。

その状況に大友宗麟は、毛利家の背後を衝きます。当時、大友家に寄寓していた大内輝弘に「大内家再興」を掲げて2,000の兵で密かに山口に送り、進攻させました。

すると大内の旧臣や尼子の旧臣がこれに便乗して動き始め、毛利家にすれば尻に火がつき、九州で戦っている場合などではなくなったのです。毛利元就は吉川、小早川ら息子たちに九州からの撤退を命じました。

やむなく毛利軍は本国へ撤退。宝満山城の高橋鑑種はじめ、筑前の国衆は大友家に降伏します。こうして5月から約半年間続いた立花山城をめぐる多々良川の戦いは、18回の戦いを経て幕を閉じました。

そして当時37歳の小早川隆景には、輿に乗った敵の主将・道雪戸次鑑連の戦ぶりが、強烈な印象として刻みつけられたようです。

翌元亀元年(1570)、立花山城は戦功のあった戸次鑑連に任されることになり、それに伴って名を道雪立花鑑連と改めます。立花道雪の誕生でした。

そして男子に恵まれなかった道雪は、高橋紹運の息子・統虎〈むねとら〉を婿養子に貰い受けます。これが「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一」と秀吉が絶賛する麒麟児・立花宗茂でした。

多々良川の戦いから24年後、61歳の老練の将となった小早川隆景が、日本軍の存亡をかけた碧蹄館の戦いの先鋒に立花宗茂を推挙したのは、かつてその義父・立花道雪の猛攻を自ら味わい、道雪という名将に畏敬と信頼を抱いていたからであったでしょう(辰)

参考文献:吉永正春『九州戦国合戦記』 他 写真:落雷、小早川隆景像

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