九州の大名では肥前(佐賀県)の鍋島家が石田三成に味方した。ところが、石田方が敗れたと聞くと、にわかに寝返った。そして、人を通じて徳川家康に降伏した。
家康は、
「では、償いとして隣国の立花を討て」
と命じた。
鍋島軍は一斉に立花宗茂の柳川城の攻撃にかかった。
このとき、割って入ったのが加藤清正である。清正は諄々と時勢の赴くところを立花宗茂に説いた。そして、降伏を勧めた。清正の誠実な説得に宗茂も納得した。宗茂も若い時分から加藤清正の存在をよく知っていた。豊臣秀吉の部将の中でも、清正は誠実で勇猛で自分に似た性格の人物だと尊敬していた。この当時、加藤清正は39歳、立花宗茂は32歳である。それほど違わない。余計親近感があった。
しかし、徳川家康は、はっきり石田三成に味方した立花宗茂をそのままにしておくことはできなかったので、領地は全部没収した。立花宗茂とその家臣たちは一斉に失業した。これを見て手を差しのべたのが加藤清正だ。
清正は、
「わたしの国に来るといい」
と誘った。
宗茂はこれに応ずることにした。ところが、宗茂が柳川を去ると聞くと、多くの家臣団が一緒に行きたいと願いでた。宗茂は困惑した。
これを知った清正は、
「遠慮はいらない。家臣たちも全部お連れなさい」
といった。
宗茂は感謝した。いま敗軍の将を庇い、その部下まで居候にするということは、徳川家康に対してかなり勇気のいる行ないだ。それを、清正は宗茂との友情のほうを重んじて、あえて実行するというのである。
立花宗茂と数百人の家臣たちが柳川を去る日、驚いたことに領民たちが一斉に国境で待っていた。そして、土の上に座り、手をついて宗茂に懇願した。
「行かないでください。殿様がその気なら、われわれも竹槍を持って起ちあがります」
と泣いて頼んだ。
国境まで迎えに出ていた清正は、この光景に胸を打たれた。
(立花宗茂は、ここまで領民に慕われていたのか)
そう思うと、改めて、家康に味方した自分が何となくうしろめたく思われた。
秀吉に可愛がられたといっても、立花宗茂への恩寵は加藤清正へのそれとは比較にならない。清正は子供のときから秀吉に可愛がられて育った。出世もさせてもらった。それを、石田三成という人物に拘わったために、ついに秀頼方に味方しなかった。
このことは生涯、清正の心の一角に暗い汚点として染みついた。
清正は、
(立花宗茂こそ、おれが本当にやりたかったことを実行した人物だ)
と思った。
宗茂は柳川を出るとき、城内にあった財産を全部、部下に分配した。無一文で清正の世話になることになった。そういう潔癖さも清正にとって何とも好ましいものであった。
更新:11月23日 00:05