立花宗茂は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将だ。筑後(福岡県)柳川に拠点を構え、豊臣秀吉に可愛がられた。秀吉が宗茂を知ったのは、島津征伐のときだ。当時、北九州を大友宗麟(義鎮)が支配していたが、立花宗茂はその大友家の一族であり、同時に大友家に仕えていた。
南の島津氏が大軍を率いて、北九州を侵略した。このとき、島津氏の勢いを恐れた北九州の豪族たちは全部島津側にまわった。その中で、立花宗茂とその実父高橋紹運だけが最後まで抵抗したが、天正14年(1586)高橋紹運は討死にしてしまった。
しかし翌年、秀吉の大軍が押し寄せて、島津は南方に去った。
このとき、秀吉は立花宗茂の武勇を讚え、
「おまえに羽柴という姓を与える。位も従四位下にしてやろう」
といった。
宗茂は首を振った。そして、
「わたしの主・大友宗麟様がまだ従五位でございます。家臣が主人を超える位をいただくわけにはまいりません。わたしも従五位で結構でございます」
といった。
このとき、宗茂はまだわずか19歳である。秀吉は感心した。そこで願いどおり、しばらくの間、宗茂に従五位の位を与え、やがて従四位下にしたという。こういう宗茂を、加藤清正は古くから知っていた。
そして、
(立花宗茂という人物は、若いけれどもなかなか誠実で律義で豪胆だ。部下の信頼も厚い)
と感心していた。
その加藤清正が改めて立花宗茂の人間的なよさを発見したのは、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦のときである。
関ヶ原の合戦はいうまでもなく、徳川家康と石田三成の争いだ。石田三成は大義名分として、豊臣秀吉の遺児秀頼を戴いていたが、誰も本気にはしていない。
「徳川家康と仲の悪かった三成が、会津の上杉景勝と手を組んで兵をあげたのだ」
と見ていた。
そうなると大名たちの去就も混乱する。まさに天下分け目の戦いで、日本中の大名が家康方と三成方に分かれた。家康方を東軍といい、三成方を西軍といった。
関ヶ原の合戦のとき、立花宗茂の態度は初めから決まっていた。
かれははっきり、
「石田殿に味方する。おれは三成殿が戴く秀頼君の父・秀吉公に破格の恩寵を被った。この合戦はご恩報じである」
といいきった。
加藤清正は徳川家康に味方した。かれも秀吉に可愛がられた大名だったが、石田三成が嫌いだった。朝鮮に出兵したときに石田三成は戦地にも行かないで、現地で苦労している大名たちの功績を勝手につくり替えたり、讒言したりした。加藤清正はそのことを根に持っていた。
もし石田三成以外の人間が、
「豊臣家のために徳川家康と戦おう」
といったなら、あるいは加藤清正はそっちに味方したかもしれない。
これは人間の性癖である。「何を」ということ以前に、「誰が」というやり手・いい手にこだわる悲しい性だ。その意味では加藤清正も、あるいは心の底で徳川家康に味方することに忸怩たるものがあったかもしれない。ある種のうしろめたさを感じたことだろう。
立花宗茂はまっしぐらに瀬戸内海を渡って関西に入った。そして、近江の琵琶湖畔大津城を攻めたてた。このときの立花軍の鉄砲隊のすさまじさは、敵をふるえあがらせたという。しかし、関ヶ原の合戦は徳川家康の大勝利に終わった。
宗茂は部下を連れて、大急ぎで船で九州に戻った。
このとき、部下が、
「瀬田の唐橋を焼いてしまいましょう」
といった。
宗茂は怒鳴りつけた。
「馬鹿なことをいうな。橋はまだまだ多くの人が利用する。また、いままでの歴史で橋を焼いて勝った大将はいない」
後にこれを伝え聞いた徳川家康は、
「立花宗茂は聞きしに勝る心優しい心がけの武士だ」
と感心したという。
だが、宗茂は単に心優しいだけではなく、過去の歴史的な事実をよく知っていたことも忘れてはならないだろう。
更新:11月23日 00:05