二本松城(写真提供:福島県)
中通りに位置する二本松藩は、会津へ通じる奥羽街道の要衝である。新政府軍が「お目こぼし」をするはずがなかった。
10万7千石を領する大藩の二本松藩もまた、新政府軍の最新式の武力の前に敗れることとなる。しかも、その負け方があまりにも不遇であった。
小峰城攻防戦の中で、会津藩は二本松藩に増援を請うた。二本松藩はこれに応えて兵を送るが、「白河口の戦い」の中で釘付け状態となってしまった。
その間、二本松城を守っていたのは、老兵や少年兵など、言ってみれば「予備兵」ばかりであった。
慶応4年7月──。
二本松城はわずかの兵力しかなく、彼らは新政府軍の銃撃に、次々と倒れていった。
「自分たちも行かせてください」
40人ほどの少年たちの隊までが、城外の戦いへとおもむいた。
が、もともと二本松藩の兵器は古く、最新鋭の銃を撃ってくる新政府軍に、かないようがなかった。
家老たちは城内で覚悟の切腹。最前線に取り残された少年たちは、一人また一人と命を散らしていった。
彼ら二本松藩の少年たちは、明治になってから「二本松少年隊」と呼ばれるようになり、その悲劇は今日に伝わっている。
* * *
私はその像を前にして、足が動かなくなっていた。
20数年前に再建された二本松城。
その「箕輪門」という門のところに行くと、戦っている少年武士の像が飾られている。背格好から、まだ子供だということはすぐにわかる。
勇ましい、と言うより痛々しかった。
「二本松少年隊の最年少は、12歳だったんだって」
私が像を見つめたままそう教えると、ミチ子は驚き、眼に涙を浮かべた。
「なんで、そうまでして……」
私も、奥羽越列藩同盟の絶望的な戦いを知るにつけ、同じ思いを抱いていた。
けれど、ミチ子の口からは意外な言葉がこぼれた。
「でも、負けるとわかっていても、戦わなければいけないときがあるんだよね」
その口調は重かった。ミチ子はテニスをやっていたが、決してうまくはなく、試合でも負けてばかりだった。そんなミチ子だからこそ、彼らの気持ちが少しはわかるのかもしれない。
負けるとわかっていても、ただ黙って、敵に見くだされたままで終わりたくない。誇り、そして故郷を馬鹿にされたままで終わりたくない。理不尽に貼られた「朝敵」のレッテルを、黙って受け入れたくはない。
福島の武士たちは、きっとそんな思いだったのではないだろうか。
* * *
そもそも戊辰戦争は、慶応4年1月に開戦した。始まりは、京における「鳥羽・伏見の戦い」だ。
慶応3年(1867)10月、京の徳川家の居城「二条城」において、最後の将軍(第15代)・徳川慶喜は、政権を朝廷に返した。
「大政奉還」である。
かくして生まれた明治新政府は、徳川家の残存勢力を、徹底的に叩き潰そうと目論んだ。その最初の戦が「鳥羽・伏見の戦い」であった。
京都の伏見に、「城南宮」という古い神社がある。
かつて、明治天皇の父であった孝明天皇が訪れたこともある、由緒ある神社だ。その城南宮が開戦地となった。
東北の諸藩は、もともと徳川家寄りである。かくして新政府は鳥羽・伏見の戦勝ののち、北に眼を向けた。
東北諸藩を討ち滅ぼし、全国を完全に掌握してこそ、「我ら新政府の幕開けだ」と国際社会に宣言できる──と。
そして、箱館(函館)に築かれていた徳川幕府の要塞「五稜郭」、言ってみれば徳川家の「最後の砦」が明治2年(1869)5月に落ちるまで、戊辰戦争は続くことになる。
「新政府軍は奥羽越列藩同盟を『朝敵』扱いしたのよ。それで、自分たちのやっていることを正当化した」
私の言葉にミチ子が顔をゆがめる。
「ひどいね……」
朝敵。天皇陛下に逆らう悪人。
* * *
戊辰戦争には「北越戦争」と呼ばれる、もう一つの激戦がある。
現在の新潟県に位置する長岡藩もまた、徳川家への忠義心を失っていなかった。北陸道を北上する新政府軍は、かくして長岡藩と激突。
だが、長岡藩では幕末きっての軍略家であった河井継之助が指揮を執り、新潟港から搬入した欧米の最新兵器を駆使して、新政府軍を苦しめた。
しかし物量で勝る新政府軍には、かなわなかった。河井継之助は傷を負いながらも、会津へと向かう。が、その道中で傷が原因で死んだ。慶応四年8月のことである。
* * *
「その河井継之助は、福島県の只見というところで亡くなるんだけど、そこには河井継之助記念館があるんだって。今回は行けそうもないけど、また次の機会に行きたいな」
私の提案に、ミチ子がうなずく。
「でも継之助って人は最期に、自分を火葬する火を、自分の目の前で燃やさせたんだって……」
私の説明に、ミチ子の顔は一瞬、青ざめた。
更新:11月22日 00:05