2017年08月22日 公開
2023年04月17日 更新
会津若松城
慶応4年8月23日(1868年10月8日)、白虎隊士中二番隊の少年20人が、飯盛山で自刃しました。会津戦争を象徴する悲劇の一つとして知られます。
「藩境の母成峠が薩長軍に破られた」。
慶応4年8月21日深夜、その急報に会津藩は、周辺の防衛策を立てるとともに、白虎隊の士中一番隊、二番隊にも集合をかけました。白虎隊とは会津藩士を年齢別で4つに分けた部隊のうちの一つで、白虎隊(16~17歳)、朱雀隊(18~35歳)、青龍隊(36~49歳)、玄武隊(50歳以上)がありました。また白虎隊も士中隊が2隊、寄合隊が2隊、足軽隊が2隊存在し、計300余名といわれます。
敵軍が東から会津城下に迫る中、22日、士中一番隊は藩主の護衛として城下に留まり、士中二番隊は前藩主・松平容保に従って、滝沢村を目指しました。隊長日向内記以下、総勢42名であったといわれます。
一行が滝沢村に到着すると、東の戸ノ口原方面から応援要請があったため、滝沢峠を越え、戸ノ口原方面に進出。ここで士中二番隊は、任務によっていくつかのグループに分かれたようです。午後4時頃には旧幕府軍が敵軍と交戦、士中二番隊は丘陵部に陣地を構えました。夜に入り、隊長の日向内記が食糧の調達のために後方へ向かいますが、これが悲劇の始まりでした。日向隊長は部下とはぐれてしまうのです。
夜半から強い雨が降り、少年たちは寒さと空腹に耐えながら、一夜を明かしました。雨は明け方には上がり、敵が迫りつつあります。そこで士中二番隊は篠田儀三郎率いる隊と半隊長・原田克吉率いる隊に分かれて前進、戸ノ口原の水田で両隊とも敵と銃撃戦になりました。白虎隊の装備するヤーゲル銃は旧式で、新政府軍の新式銃とでは勝負になりません。他の友軍も激しく戦いますが死傷者が続出しており、士中二番隊も複数のグループに分かれて戸ノ口原から退却します。しかし敵の進軍は早く、やむなく少年たちは街道を避けて、山中を潜行しながら城下を目指しました。
そのうち他の会津藩部隊に合流して城に戻れた者たちもいましたが、篠田儀三郎や飯沼貞吉ら20名は滝沢不動滝から不動川に沿って西に向かったところ、敵部隊と遭遇して激しい銃撃を受け、永瀬雄治が負傷。一行は飯盛山の北東斜面にある戸ノ口堰の洞門に入ります。
腰下まで水に浸かりながら、150mの洞門を抜けて外に出て、さらに用水に沿って100mほど進むと、城下が望めました。すでに町の随所で火の手が上がり、木立に囲まれた若松城もすでに尋常ではないように見えます。従来、彼らは城が燃えていると誤認して、自刃を選んだと語られてきましたが、そうではありませんでした。彼らは戸ノ口原の戦いで敵に歯が立たず潰走したことを恥じ、中には城に戻って戦うことを唱える者もいましたが、途中で敵に捕らえて生き恥を重ねる恐れもあり、それよりも、士中(上級武士)らしくここで自刃しようという結論に至ったのです。
自刃した20名のうち、まだ息があった飯沼貞吉のみ救助されて蘇生、19人が最期を遂げました。なお会津戦争では、他にも32人の白虎隊士が戦死しています。 初陣で敵に劣る装備の少年たちを、せめて年長者がリードしていれば、この悲劇を防ぐことはできたのかもしれません。しかし武士として、誇りを重んじて自刃を決断したまだ16歳や17歳の少年たちの姿には、たまらない気持ちになります。
飯盛山 白虎隊十九士の墓
更新:11月22日 00:05