白河小峰城(写真提供:福島県)
幕末の白河は徳川幕府の領地であり、堅牢な「白河小峰城」がそびえていた。
この地は戊辰戦争の中でも、もっとも激烈な戦闘が行なわれた、いわば「戊辰戦争」の戦局を大きく左右した場所である。
その戦いは「白河口の戦い」と呼ばれる。
慶応4年(1868)閏4月から、約3カ月弱にわたって、新政府軍と旧幕府軍のあいだで、この城の攻防戦が繰り広げられた。
新政府軍の兵力はわずか七百。対して守る旧幕府軍は、会津藩、庄内藩、仙台藩、棚倉藩、それに旧幕府歩兵隊なども合わせて、総勢2500。
「あの大砲、何とかならぬのか」
旧幕府軍の白河口の総督、西郷頼母が苦虫を嚙み潰したようにつぶやく。会津藩の家老だ。
数の上では完全に有利だったにもかかわらず、絶え間ない砲撃と、新式の銃を装備した新政府軍によって、城はついに落とされる。
旧幕府軍は軍勢を整えて、小峰城の奪還をめざして攻撃を繰り返す。しかし、城は落ちない。
そうこうしているうちに、浜通りと中通りのほとんどを新政府軍側が押さえたことで、旧幕府軍は白河周辺からの撤退を余儀なくされた。
東北の入り口である白河を失うことによって、関東側の旧幕府軍との連携が取れなくなった。東北は孤立したのである。
この白河口の戦いのときに、東北と越後の諸藩が「奥羽越列藩同盟」を結んだが、新政府軍との、長く苦しい戦いを強いられることとなる。
* * *
「武器の違いがあっても、そんなに戦力差があったら勝てそうなのに」
白河口の古戦場跡に立ったミチ子の疑問は、しごくもっともなものだった。
「旧幕府軍側は会津藩とか仙台藩とか、大きな藩が集まっていたし、幕府の部隊も混ざっていたから、うまくまとまっていなかったんだって」
「チームワークの差か」
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磐城平城(写真提供:ニッポン城めぐり)
白河口で奥羽越列藩同盟の主力が戦っている間に、浜通りと中通りにある同盟側の諸藩は、次々と新政府軍に屈した。
浜通りでは、もっとも南に位置する磐城平藩が、何度か新政府軍を撃退するも慶応4年7月、ついに進退窮まる。
「もはや、これまでか……」
覚悟を決めた家老・上坂助太夫自らが、城に火を放った。
浜通り北部にある相馬藩の中村城も、8月に落城。
一方、中通りでは6月、南部にある棚倉藩の棚倉城が落ちる。ついで、三春藩も降伏。
本宮の地で両軍が激しく戦うも、新政府軍が勝利を収め、戦いの舞台は、北部の二本松藩へ。
中村城(写真提供:ニッポン城めぐり)
棚倉城(写真提供:福島県)
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「なんだか悲しいね」
古びた石垣をさすりながら、そうミチ子はつぶやいたが、私はただ「悲しい」だけとは感じなかった。最後の最後まで戦い抜いた福島の武士たちに、何か「力強いもの」を見出していた。
「『白虎隊記念館』に行く前に、もう一つ見ておきたいお城があるんだよね。佐川さんのメモにも書いてあった二本松城」
更新:11月22日 00:05