母成峠古戦場(写真提供:ニッポン城めぐり)
浜通り、中通りの諸藩を落とし、いよいよ迫ってくる新政府軍を、会津藩を中心に、旧幕府軍は総力戦で迎えうった。
会津若松へ向かうには、いくつかのルートがある。それらに守備兵を振り分けていたのだが、手薄である脇街道を新政府軍に衝かれる。
新政府軍の急襲に、寡兵でもある守備隊は混乱。母成峠を突破されてしまう。
ここには、新選組の副長として知られる土方歳三もいた。
「敵は明朝、猪苗代に押し寄せるだろう。諸口の兵を猪苗代へ」
と警告を発したが、聞き入れられない。
猪苗代城を奪取した新政府軍は、そのまま若松へ進攻する。
そして、あまりの進軍の速さもあって、諸口の兵を戻すことができなかったことが、白虎隊の悲劇も生んだ。
わずか16、7歳の少年武士たちだけで編成された「白虎隊」。
白虎隊はもともと、城下町の警護の役目を与えられていた。だが、新政府軍の怒濤の進攻に、白虎隊も前線に出なければならなくなった。
そして戦いの中で何人もが倒れていき、最後には、本隊とはぐれた20人が飯盛山へと向かう。
「城が燃えている。もう……」
城下町が燃えているのを見て、会津若松城が落城したと思い、集団自決をする。
負け戦で敵に醜態を曝すより、会津武士として最期を全うしたい──との思いからだったという。
白虎隊記念館(写真提供:福島県)
* * *
一泊してから、私たちは会津若松駅に向かった。駅から出ている周遊バスに乗って、「飯盛山下」という停留所で降りた。
すると、すぐ目の前に、ちょっとレトロな白壁の建物があった。
少年武士の銅像が、チョコンと立っている。ここが「白虎隊記念館」だ。
記念館の中には、「白虎隊自刃の図」が飾られていた。山の中腹で何人もの白虎隊士が、一緒に最期を迎えようとしている。
それ以外にも、「西軍四斤山砲」も展示されている。北越戦争において、新政府軍が使ったものだ。
館を出ると、白虎隊士が自決した飯盛山に登れる道があった。でも、その場を見るのが辛すぎて登らなかった。2人で山を見上げながら、黙って手を合わせ、会津若松城へと向かった。
「会津若松城」は会津藩の城だ。
町中から見上げても、堂々とした威厳が感じられる。城壁の白に瓦の赤が映えて、とても美しい。
この城も明治政府に壊されて、復元したものだそうだ。一通り見学してから、町のお土産屋さんに寄った。
ミチ子が、鉢巻を巻いて刀を差した可愛らしい女の子のマスコット人形を手に取る。見ると「八重たん」という名が付いていた。
「5年前の大河ドラマ『八重の桜』の主人公・新島八重だよ」
私はすぐに気づいた。
更新:11月22日 00:05