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なぜ織田信長は副将軍より「堺」を欲したのか?天下統一を支えた経済戦略

大村大次郎(元国税調査官)

織田信長像

強力な軍勢を有し、戦国の覇者となった織田信長。その強さを支えていたのは「抜きん出た経済力」にあった。信長はなぜ莫大な富を得ることができたのか。そして、なぜ「副将軍」という地位を断り、自治都市「堺」の支配にこだわったのか。本記事では、経済力の源となった港町・津島の存在や、日本最大の商業都市・堺を無傷で手に入れた信長の緻密な経済戦略を解説する。

※本稿は、大村大次郎著『お金の流れで読み解く戦国武将』(三笠書房)より一部抜粋・編集したものです。

 

莫大な富を得ていた秘密は「港」にあった

織田信長は経済力によって直属軍を充実させ、桶狭間の戦いで2万の大軍を抱える今川義元に勝利した。では信長の経済力の源とは何だったのか?
その大きな一つは「港」だった。

信長は、戦国時代が中盤に差し掛かる天文3(1534)年、尾張半国の領主である織田信秀の嫡男として勝幡城で生まれたとされている(違う説もある)。勝幡城は当時、尾張の物流拠点だった津島という港のすぐそばにあった。

津島は、尾張と伊勢を結ぶ地点にあり、西日本と東日本の中間に位置していた。木曽川の支流・大川と天王川の合流点であり、尾張、美濃地方の玄関口でもあり、また牛頭天王社(津島社)の門前町でもあった。そのため津島は中世以降、急速に発展した。

織田家が津島を支配するようになったのは、祖父・信定の代である。信定は大永年間(1521~1528年)ごろに、津島を支配するようになったと見られている。

父・信秀の代になると、さらに津島との関係は深まる。信秀は本拠地を勝幡城に置いたのだ。津島地域の発展が目覚ましいため、ここを拠点にしたのである。
このことからも、当時の津島がかなりにぎわっていた様子が窺える。当時の織田家は、版図自体はそれほど大きくはないが、経済力はかなりのものを持っていた。

一例を挙げると、信秀は禁裏修理料として、朝廷に4000貫目を寄付している。4000貫目とは米にすれば1万6000石にあたり、4万石の大名の1年分の年貢収入に相当する。それをポンと寄付できるのだから、信秀の経済力は相当なものだ。

当時のほかの大名と比べても抜きん出ており、たとえば永禄2(1559)年、上杉謙信が上洛した際に将軍へ献上したのは、黄金30枚である。この黄金30枚というのは、銭にすると1200貫目になる。信秀が朝廷へ献上した4000貫目の3分の1以下だ。つまり津島からの収益は、それほどまでに大きいものだったのだ。

信秀を支えていた津島は、当然、信長に受け継がれた。信長が強力な常備軍を持てたのは、この津島の収益のおかげだったと言える。信長は、ほかの戦国大名に先駆けて強力な常備軍を保持し、この常備軍を使って義元を桶狭間に葬り、次々に周辺国を制圧。最速で天下を狙える位置に上り詰めたのである。

 

副将軍よりも「堺」を欲しがった理由

津島の豊かさを肌で知っている信長は、常に「港」と「流通」を重要視してきた。

永禄11(1568)年、信長は将軍・足利義昭を警護して上洛し、たちまち畿内を制圧した。義昭は、その労に報いるために、副将軍か畿内5か国を治める管領職に就くように要請する。しかし信長はこれを断り、代わりに堺、大津、草津に代官を置く許可を願い出た。信長が経済観念に優れていたとして、よく語られるエピソードだ。

堺、大津、草津は当時、日本有数の港である。信長は、そこに商業的価値を見出していたのだ。

しかし、信長が堺、大津、草津を押さえたのは、商業的価値ばかりが目的ではない。この三都市は、いずれも信長の戦略にとって最重要拠点だった。特に堺は、当時の日本経済の一大拠点で、しかも日本最大の軍需都市でもあった。

当時、堺は日本最大の国際港だった。そもそも堺は、山口や北九州へ続く瀬戸内航路であり、土佐や南九州への南海航路の起点で、海上交通の要衝だった。平安時代には塩湯浴(しおゆあみ)の地として知られ、紀伊の外港として古くから発展してきた。摂津と和泉(大阪府南西部)の国境にあったことから「堺」と呼ばれ、そのまま地名となった。

堺は、応仁の乱で畿内が荒廃したのをきっかけに、遣明船の母港ともなり、さらに大きく発展した。戦国時代には、日本で最大の物流拠点となっていたのだ。

戦国時代の一時期、室町幕府の実権を握った細川晴元は、堺を根拠地にしていたことがあった。それも堺の巨大な経済力を見てのことだった。晴元は、堺から幕府の行政文書を発給したこともあり、つまり堺が事実上の首都だったこともあったのだ。

この当時、堺を訪れたことのあるイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルは、マラッカの司令官にあてた手紙の中で次のようなことを書いている。
「日本のほとんどの富がここに集まっている」
「堺は日本でもっとも栄えた港なので、ここに商館を建てるべし」

また宣教師たちはその書簡で「堺は広大で執政官による自治が行われている。多くの商人たちがいる繁華なところで、まるでベネチアのようだ」とも述べている。

堺では、問屋などの商人が数多く集まり、両替商などの金融システムも発達した。
つまり「堺を手中にする」ということは、当時の日本の商業を手中にするようなものだった。信長が目をつけたのは、まずこの豊かさがあったからである。

 

当初は信長に反抗的だった堺の商人たち

このように堺は、日本最大の貿易港であり商業都市だったわけだが、この堺という土地は戦国武将にとっては御しがたいところでもあった。というのも、当時の堺は、商人などによる自治都市となっていたのだ。

室町時代後半の応永26(1419)年、堺の住民たちは領主から「地下請(じげうけ)」を勝ち取っていた。地下請とは、その地域の住民が年貢をひとまとめで請け負う代わり、自治権を認めさせるというものである。以来、堺は住民による自治が確立し、戦国の世になってもそれを守り通してきた。強固な警察組織も持っていたので「堺より安全なところはない」と言われるほどだった。

堺では、有力な商人が浪人を雇い、傭兵軍をつくっていたし、市街には門があり、夜になると閉じられた。周辺の大名たちにとって、堺は魅力のある地域ではあったが、なかなか手が出せない地域でもあったのだ。

日明貿易などで栄えた堺は、周辺の武将から軍資金の財源として、目をつけられることがたびたびあった。9代将軍・義尚も2000貫の軍資金を要求している。堺はそれらの要求に時に応えながらも、自治権は決して手放さなかった。だから堺に代官を置いたからといって、堺という街自体がすぐに信長になびいたわけではなかった。というより、むしろ当初は信長に強く反発していた。

信長は上洛するとすぐに、将軍家再興のためとして、畿内の各都市や寺社などへ矢銭(臨時税)の差し出しを命じた。堺には2万貫目、石山本願寺には5000貫目である。石山本願寺は応じたが、堺はこれを拒否。堺は三好三人衆(三好長逸、政康、岩成友通)に頼んで、信長を追い払おうとした。堺の商人たちは信長よりも、長年、京都で勢力を誇っていた三好に分があると見たのだ。

これに対して信長は、堺を攻撃すると脅しつつも、すぐには実行しなかった。堺を敵にして灰にしてしまうより、味方にしてその経済力・工業力を利用したかったからだ。信長は1年の間、堺を攻撃せずに我慢した。

三好三人衆は、信長が上洛すると、すぐに一旦は帰順した。が、信長が岐阜に戻ると堺で軍備を整え、京に攻め込んで将軍・義昭のいる本圀寺を包囲した。これを見た信長は、すぐさま取って返し、三好勢を撃退した。

その勢いで、信長は堺に対して次の2点を強硬に迫った。
・今後、一切浪人を抱えないこと
・三好方への味方はしないこと
ここに至って堺は観念し、信長に証文を出して、2万貫目の矢銭にも応じた。
こうして信長は、堺を無傷で手に入れたのである。

プロフィール

大村大次郎(おおむら・おおじろう)

元国税調査官

国税局に10年間、主に法人税担当調査官として勤務。退職後、ビジネス関連を中心としたライターとなる。単行本執筆、雑誌寄稿、ラジオ出演、『マルサ!!』(フジテレビ系)や『ナサケの女~国税局査察官~』(テレビ朝日系)の監修等で活躍。ベストセラーとなった『あらゆる領収書は経費で落とせる』(中公新書ラクレ)をはじめ、税金・会計関連の著書多数。学生の頃よりお金や経済の歴史も研究しており、『お金の流れで読む日本の歴史』(KADOKAWA)、『関税の世界史』(宝島社)、『「土地と財産」で読み解く日本史』(PHP 研究所)などがある。

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