2026年07月09日 公開
写真:三川合流点の上流側から大山崎方面を望む。中央を流れるのが宇治川、左手は木津川、右手の山が天王山
あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず!「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。
桂川・宇治川・木津川が合流して淀川となる三川合流点の右岸、流れの近くまで天王山が迫る。京都府と大阪府の境界の地でもあり、現在は京都府大山崎町側を大山崎、大阪府側を山崎と呼ぶ。近畿の要衝と知られ、特に羽柴(豊臣)秀吉と明智光秀との天下分け目の決戦「山崎の戦い」の場となったことはあまりに名高く、「天王山」は決戦・山場の代名詞となっている。
一方で、天王山の麓や山腹は三川を望む、風光明媚(めいび)な郊外でもある。近代においては資産家が邸宅や別荘を構え、その一人が、明治末期から昭和の戦後まで関西財界で活躍した、加賀正太郎(しょうたろう)であった。
天王山の中腹に「大山崎山荘」を築いた彼が、ここで熱中したのが、蘭(らん)の栽培であり、その成果を記録した画集『蘭花譜(らんかふ)』の制作である。その画集の絵をあしらった絵ハガキを販売する大山崎町歴史資料館を訪ねて、加賀正太郎の人となり、『蘭花譜』に託した思いを探った。
【兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)】
昭和31年(1956)、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年(1997)より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』(ともにウェッジ刊)。
【(編者)歴史街道推進協議会】
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体感し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。
写真:天王山にある宝積寺(ほうしゃくじ)の三重塔。宝積寺は「山崎の戦い」で秀吉が本陣を置いたところといい、この塔は戦いののちに秀吉が一夜で建てたという伝承がある。大山崎山荘は、この宝積寺の隣接地にあたる
三川と天王山の間、大山崎の狭地を、京都と西国をつなぐ、平安時代以来の西国街道が通る。また、淀川を船で行き交う人々が、発着地としたのが山崎の津であり、いわば京の外港として、中世に淀、近世に伏見の港が整備されるまで、格別に重要な地位を保っていた。
平安時代の初期に、嵯峨(さが)天皇がこの地に離宮を置き、また、清和天皇が八幡神をここに勧請し、これを対岸の男山(おとこやま)山上に移転したのが、石清水(いわしみず)八幡宮であるという。移転後も大山崎には離宮八幡宮が営まれ、中世には当社が荏胡麻(えごま)油の販売権を独占し、大山崎油座の商人たちが全国各地に雄飛して栄えた。
大山崎を格別に著名なものにしているのが、羽柴秀吉と明智光秀の軍勢が激突した「山崎の戦い」である。天王山の麓が主戦場となり、山上に陣取って指揮した秀吉が勝利を果たした。この決戦ののち、大坂城を築くまで、秀吉は天王山に居城を構えてもいる。
また、この時期に、秀吉に仕える千利休は、麓に草庵茶室を建てた。禅寺の妙喜庵に残るこの茶室は「待庵(たいあん)」と呼ばれ、利休の築造と確定できる唯一の茶室として国宝に指定されている。
幕末の「禁門の変」で、京都御所を襲った長州藩士たちは、まず大山崎に上陸して離宮八幡宮を拠点とした。敗退して天王山に立て籠もった真木和泉守保臣(いずみのかみやすおみ)らは、会津藩や新選組の攻撃を受けてここで自害。彼ら十七烈士の墓が山腹にある。
明治末期から大正・昭和初期、国内の産業革命は進展するが、一方、大阪などの都市の住環境は煤煙などで悪化する。この時期に発展した関西の鉄道会社は、沿線郊外の阪神間や大阪北部で住宅開発を進め、田園都市での文化的生活をしきりにアピールし、都市住民の移住を推奨した。
そうしたなかで、大山崎の地も京都・大阪に直通する、自然環境が豊かな良地として注目される。昭和3年(1928)には天王山山麓に、建築家の藤井厚二が自邸「聴竹居(ちょうちくきょ)」を建造。現在、木造モダニズム住宅の傑作として重要文化財に指定されている。そうした動向の先駆として、天王山の山腹に広大な敷地を得て邸宅を置いたのが、若き経済人、加賀正太郎であった。
写真:英国風の外観の大山崎山荘本館。平成初期、山荘を取り壊し、マンションを建設する計画があったが、地域の人たちを中心とする運動を受けて保存がかなった。現在はアサヒグループ大山崎山荘美術館として運用され、今年、美術館として開館30周年を迎えた
加賀正太郎は、明治21年(1888)に大阪船場(せんば)に生まれた。実家は江戸時代から両替商などを営み、父の加賀市太郎(いちたろう)は株式仲買を手掛け、大阪屈指の資産家として知られた。しかし、正太郎が12歳の時にその父は没する。母のレイは一旦、事業を停止して、遺産の一部をもって現在の価値で百数十億円相当という国債を購入。これを日銀大阪支店に預け、正太郎の将来に備えた。
明治40年(1907)、正太郎は東京高等商業学校(高商・現在の一橋大学)に入学。翌年、20歳のときに、日本山岳会に入会している。少年時代から蝶(ちょう)が好きだった彼は、採集のために山に入るうちに、登山の魅力に目覚めたのだという。
明治43年(1910)、高商の卒業を待たずにヨーロッパに遊学。シベリア鉄道でロシアに入り、フィンランド、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、ドイツとたどってスイスに入り、ここでアルプス山脈のユングフラウに登頂。日本人初の業績として記録されている。その後、正太郎は、イタリア、フランス、オランダと旅し、最後にイギリスに渡る。訪欧の目的の一つであったロンドンでの日英博覧会の見学に加えて、キュー王立植物園を訪問。ここでの洋蘭との遭遇が、生涯の趣味となる蘭栽培へと正太郎を向かわせる端緒となる。
翌年、高商を卒業し、家業の証券業を再開。加賀商店(のちの加賀證券)を立ち上げる。その一方で、大山崎・天王山の土地を購入し、1年後には山荘の建設に着手。公害がひどかった大阪市内での生活で健康を害し、週末の安息所とするためであった。
大正3年(1914)、山荘に小さな温室を設けて蘭栽培を始める。当初は英国産および英国経由の輸入蘭を育てるが、未経験のうえ、蘭栽培は難度が高く、多くを枯れさせてしまった。
大正4年(1915)には、京都に滞在していた夏目漱石夫妻を建設中の山荘に招待。山荘の命名を漱石に依頼するが、結局は正太郎自身が「大山崎山荘」と名付ける。翌年、豊田千代子と結婚。
大正6年(1917)、第1期の大山崎山荘が完成。同年、当時はオランダ領であったインドネシア各地を巡り、登山のほか、蝶・蘭の調査を行なう。東洋最大規模のボゴール植物園を訪れ、蘭のコレクションに驚嘆する。
大正11年(1922)、第2期の山荘の設計を開始。永住の場とするための増築とゲストハウスの拡充を図り、建築・庭園をはじめ一木一石まで、正太郎が考案設計にあたった。10年後の昭和7年(1932)に竣工し、これが現在の大山崎山荘のもととなっている。また、同じ大正11年に、新宿御苑の栽培技師であった後藤兼吉を招聘(しょうへい)。山荘敷地で本格的な蘭栽培を開始した。
事業家としても正太郎は活躍の幅を広げ、大正12年(1923)には、大阪府内初となるゴルフ場、茨木カンツリー倶楽部設立に参画。理事を務めるだけでなく、ゴルフを日頃から愛好していた彼は、自身で設計も行ない、その思いのままの立案によって関係者と軋轢(あつれき)を生じさせながらも名コースを造り上げた。
昭和9年(1934)には、竹鶴政孝が立ち上げた大日本果汁株式会社(現在のニッカウヰスキー株式会社)創立にも参画。資本金の70パーセントを出資し、実質的なオーナーといえる立場となった。竹鶴夫人のリタが、妻の千代子の英語教師を務めるなど、竹鶴夫妻と加賀夫妻はかねてより交流があったという。
写真:大山崎歴史資料館で販売している「蘭花譜 絵ハガキ」。最初に制作した6枚組と、好評を受けて追加した別図版の8枚組がある
正太郎が述べたところによれば、大山崎山荘の蘭のコレクションは、世界的新種・優良種・奇種として残存するもの約360種、輸入交配種約650種、原種160種。鉢数は約1万に及んだという。そして、正太郎は、その長年にわたる栽培の成果から逸品を選んで、画集として記録し、配布することを思い立つ。これが『蘭花譜』である。
「加賀正太郎は多趣味の人でしたが、何をするにして自身の嗜好(しこう)を貫き、妥協を許さないところがありました。この『蘭花譜』において、もっともこだわったのは、日本の伝統技術である木版画で制作することでした」。今回の解説をお願いしたのは、大山崎町歴史資料館の館長で学芸員の福島克彦さん。昨年と今年はほかの企画とのかねあいで実施がなかったが、例年春季に当資料館で『蘭花譜』とそれに関係する企画展を開催してきた。
最終的に刊行された『蘭花譜』は、日本画を原画とした木版画84点、日本画4点・油彩画9点・写真7点をもとに印刷したもの計20点、あわせて全104点からなる。これに正太郎自身が記した冊子「蘭花譜・序」(以下「序」)を添えた木箱入りであった。発刊数は300部とみられる。主となる日本画の原画を担当したのは、植物愛好家でその絵を得意とした池田瑞月(ずいげつ)。昭和8年(1933)ごろから原画を描き始め、昭和11年(1936)には木版画が摺(す)り始められたとみられる。
木版画を重用した経緯については「序」でも触れられているが、当初、印刷業界の協力を得て制作を試みたものの、欧米の図譜には及ばないとみて諦め、一方、浮世絵以来の日本式の木版画での試作は、出来栄えに驚くほどであったという。正太郎にとって『蘭花譜』の第一義は、蘭の生態を写す学術的記録であったが、日本の木版技術を用いることで、それをいきいきと表現する美術的価値をも見出したのである。
「実は『蘭花譜』の木版画のほとんどが、蘭を原寸のまま記録しています」と、『蘭花譜』の実物に触れてきた福島さんが教えてくれる。「しかし、版画の用紙は決まった大きさがあり、蘭によってはそこに収まらない場合もありました。そうすると、茎の途中などで分割して画面に収めています。加賀氏の記録へのこだわりが見えるところです。ただ、美術家であった池田瑞月にとって、こうした対処はさすがにつらかったようですが」。
一種ずつ順次、木版画を仕上げていったが、戦時に入ると、制作は困難を極めた。用紙とした特注の越前和紙が入手できなくなり、昭和19年(1944)には、多くの原画を描き、校正にも関わった瑞月が没した。木版の彫刻を担った、東京の彫師・大倉半兵衛は空襲で行方不明となった。また、山荘での蘭の栽培自体も燃料不足から温室が温められず枯れ死するものがあり、大戦末期には、後藤兼吉が招集されてもいる。
そうした困難がありながら、終戦の1年後の昭和21年(1946)、正太郎は『蘭花譜』を発刊する。戦後混乱期の発刊の背景には、作りためた木版画などが散逸することへの危惧、蘭栽培の先行きへの不安があった。しかし、そこには希望もあった。「序」に正太郎は記す。
──日本民族は必ず更生するであろう。時を要するかも知れないが、今までとはまるで違った形において、美しき日本は必ず生まれ出るであろう。これが余の最も大きな希望である事は言うまでもない──。正太郎にとって『蘭花譜』は、その指標の一つだったと思われる。
加賀正太郎は、戦後、長い闘病の生活ののち、昭和29年(1954)に没した。それから37年後の平成3年(1991)、大山崎山荘で百点近い日本画の原画が偶然に発見された。しかし、その原画は『蘭花譜』に収録されている作品のものとは、すべて異なっていた。正太郎は『蘭花譜』の第2輯(しゅう)の制作を計画していたといい、そのために保留していた絵であったのだろう。それらの原画は大山崎歴史資料館に寄託され、企画展で紹介されてきた。
「一方で、『蘭花譜』第1輯に使われた原画は見つかっていません。どこにあるのかというのが、現在に残る謎です。それらしいものが出てくることがありましたが、贋作(がんさく)でした」と福島さん。『蘭花譜』の全容は、いまだ解明されてはいないのである。
大山崎町歴史資料館では、『蘭花譜』の木版画をもとにした絵ハガキも販売している。同町の商工会青年部が約30年前、大山崎山荘が美術館として開館するのに合わせて、町のPRのために制作したものである。印刷された絵ハガキは、大きさも質感も原本に及ぶものではないが、手に収まって親しみを感じさせる。加賀正太郎の希望とともに、広く、多くの人のもとに届いてほしい。
更新:07月13日 00:05