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豊臣秀長が築いた城とも関わる、大和郡山名産の金魚

兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)

史跡郡山城跡写真:史跡郡山城跡〔写真提供:大和郡山市〕。桜の名所でもあって、花の時期に「大和郡山お城まつり」が行なわれる。令和8年は3月24日(火)から4月7日(火)の開催。29日(日)に時代行列などが実施されるほか、28日(土)には金魚品評会も開催

あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず!「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。

天下人となった豊臣秀吉のもと、弟の秀長が大和・紀伊・和泉の三国を治める居城を築き、城下町を整えた大和郡山。現在も秀長時代の天守石垣や、箱本十三町(はこもとじゅうさんちょう)といわれた城下町の面影が残る。今年は大河ドラマの主人公がこの二人であることから、市内に「豊臣兄弟!大和郡山 大河ドラマ館」を設けるなど、「秀長さんプロジェクト」が進められている。

この大和郡山市の名産としてよく知られるのが、金魚である。例年、夏のニュースで紹介される全国金魚すくい選手権大会を開催するなど、金魚関係で注目されるイベントや施設も市内に多く、話題に事欠かない。金魚の育成が地域に根付いた、その起源をたどると、郡山城の殿様との深い関係が見えてくる。金魚の生産の歴史と、大和郡山ならではのその展開を探ってみた。

【兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)】
昭和31年(1956)、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年(1997)より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』(ともにウェッジ刊)。

【(編者)歴史街道推進協議会】
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体感し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足

 

王侯貴族の愛玩魚から庶民の暮らしの近くに

金魚のもととなった魚は、フナ(鮒)である。フナは色素変異によって、しばしば赤いフナが出現する。これをヒブナ(緋鮒)という。そのヒブナをさらに品種改良して赤い色を定着させるなどした魚が金魚である。金魚は遺伝的変異を起こしやすく、多様な体形・体色・模様のものが育成されるが、生物学的な種は同じなのだという。

いち早く飼育されるようになったのは中国で、6世紀以前のことと見られる。10世紀後半から養魚が進んで品種も増加。皇帝や皇族・貴族が愛玩する贅沢(ぜいたく)品であった。

江戸時代の寛延元年(1748)に初版が発刊された、泉州堺の人・安達喜之が著した金魚飼育案内書『金魚養玩草(そだてぐさ)』によると、我が国への金魚伝来は、室町時代の文亀2年(1502)、明国から堺にもたらされたという。

近世前期までは希少で高価な観賞魚であったが、この本が出版された江戸中期には養殖が進み、庶民にも金魚の飼育が広まり、金魚売りの業態も成立。ガラスを使った金魚鉢などの専用の凝った調度も作られるようになる。

浮世絵・日本画の題材としてもよく取り上げられた。特に幕末から開国のころには、金魚ブームといえる状況であったらしく、長屋の軒先に置かれた水槽で金魚が泳ぐ様子に、来訪した外国人も感心している。

 

新城主の柳澤氏とともに伝えられ、歴代藩主が養魚を奨励

大和郡山名産の金魚「ワキン」写真:大和郡山名産の金魚「ワキン」。撮影時は、出荷のオフシーズンで少し大きく育ち、春に産卵して親になる金魚である

大和郡山に金魚が伝えられたのは享保9年(1724)、柳澤吉里(やなぎさわよしさと)が新城主として甲府から郡山に移封された際のこととされる。吉里とは、5代将軍徳川綱吉(つなよし)に側用人(そばようにん)として重用され、元禄期に大老格として幕政を主導した柳澤吉保(よしやす)の子である。以後、柳澤家が6代にわたって、明治の廃藩置県まで城主を務めることになる。

柳澤吉里に従って郡山に入った家臣に、横田又兵衛という者がいて、金魚を持ち来たったという。郡山入部後、藩士の間に金魚の飼育が広がり、当初は趣味的なものであったようだが、のちに収入を得る藩士の内職となり、安永2年(1773)に家督を継いだ3代藩主柳澤保光(やすみつ)が、地域産業として援助するところとなる。

大和郡山市、東京都江戸川区と並んで、「弥富(やとみ)金魚」の産地・愛知県弥富市が、3大金魚産地に数えられる。その弥富の金魚養殖の発端について次のような伝えがある。

幕末の文久年間(1861-1864)に、熱田に向かう郡山の金魚商人が、前ヶ須(まえがす・現在の弥富市)の宿場に滞在し、池を造って金魚を休ませた。地元で寺子屋を営む権十郎という者がこれを見て、ぜひにと金魚を購入し、飼育を始めた。のちに産卵や孵化(ふか)の方法なども郡山の商人から教わり、本格的な養殖が行なわれるようになったという。大和郡山の金魚販売の広がりがうかがえる話でもある。

明治を迎えて廃藩となると、大和郡山の旧藩士にとって金魚養殖は一層、重要な収入源となった。砲術家として幕末の戦いにも参加した藩士・小松春鄰(はるちか)は、廃藩後、金魚の養殖を事業とし、明治12年(1879)には錦鱗(きんりん)社を立ち上げ、郡山城の外堀や付近の村々に養魚池を広げて増産を図る。また、農家に飼育法を伝授し、副業として金魚の養殖を勧めた。

金魚の販路拡大にも、春鄰は取り組んだ。新聞広告などで郡山の金魚の知名度を高めるとともに、金魚運搬用に重ね桶(おけ)を導入して鉄道輸送を始め、北陸や東京へ進出したのも彼であった。

一方、明治20年(1887)、最後の郡山藩主であった柳澤保申(やすのぶ)は、旧藩士のために柳澤養魚研究場を設立して金魚養殖の発展を支援。跡を継いだ娘婿の柳澤保恵(やすとし)も、明治33年(1900)、郡山城跡に柳澤養魚場を設立し、品種改良や販売を促進した。6年間のヨーロッパ留学経験を持ち、第一生命保険初代社長や貴族院議員を務めた保恵は、日本の金魚を広く海外へ輸出して国益を上げたかったと思いを記している。明治37年(1904)には郡山城内で品評会を開催し、自身も金魚を出品。この金魚品評会は現在も100回を超えて継続している。

そうした人々の尽力をもとに、大和郡山の金魚生産量は増大し、昭和8年(1933)には年間2000万尾を超え、戦前の最盛期には全国の金魚の6割を生産するまでに至った。

 

戦後に量産が始まった小さな金魚

養魚場で金魚を見せてくれる幸田さん写真:養魚場で金魚を見せてくれる幸田さん。この水槽だけで約1万匹とか。この養魚場は産卵と孵化に使い、その後に溜(た)め池に移して育成している

「郡山城主だった柳澤氏には、金魚を持ってきて、地場産業としての基礎を築いていただいたということで、格別な崇敬があります」と語るのは、金魚養殖を始めて5代目という「幸田養魚場」代表の幸田正さん。「金魚の養殖を本業として、本格的に始めたのは祖父の代からで、戦後になります。養殖の規模が大きくなっていったのも戦後以降で、お祭りなどの催し物が増え、金魚すくい用などの需要が増えたことが要因です」。

太平洋戦争時に落ち込んだ金魚産業だったが、昭和30年代から大和郡山市内の金魚池が復活し始め、昭和43年(1968)ごろには戦前と同程度の生産量まで回復した。その復興を支えたのが、金魚すくいの需要で、もっとも原種に近いワキン(和金)、それも生まれて1年以内のコアカ(小赤)と呼ばれる小さい金魚への大量の注文を呼び起こし、幸田さんいわく、作れば作るだけ売れる時代となった。

現在も、大和郡山での金魚生産の中心は、そうした小さなワキンが占めている。その背景には、この地域ならではの養殖環境がある。

「リュウキンやランチュウといった観賞用の金魚の場合は、大きく育てながら形や色の良いものを選別していく手間が必要ですが、小さなワキンということでは、大きさをそろえる程度でそうした手間は不要ということはあります。ただし、育てる金魚が大量で、それが可能だったのは、大和郡山には金魚を育てることができる溜め池が数多くあったということがあります」。

大和郡山市が位置する奈良盆地は年間降雨量が少なく、古代から多くの農業用溜め池が設けられた。それが養魚池に利用されて金魚産業を支えてきた部分は大きい。特に戦後の大量生産は溜め池なしでは成り立たなかったと思われる。

溜め池の水づくりには、気を遣うと幸田さんはいう。まず、有機肥料を投入して、金魚の餌となる動物プランクトン「ミジンコ」を発生させる。そこに幼魚を入れると、やがてミジンコを食べ尽くす。そうするとミジンコが餌としていた植物プランクトンが増加して、水は緑色の「青水」へと変わっていく。この青水が必需なのだという。

金魚は、飼うスペース内の密集度によって大きさが変わる。出荷に適したコアカの大きさを維持するためには、池の大きさごとにそれなりの数を入れなければならない。しかし、数が多いと水中の酸素が不足しやすく、金魚が死んでしまう。そうさせないために、光合成で酸素を供給する植物プランクトンが水中に不可欠なのである。金魚が病気にもなりにくいともいう。

大きさがさまざまな溜め池にどれくらい幼魚を入れるか、また、池によっては青水になりにくいといったこともあり、そのための肥料を調整するなど、経験をもとに対応していると幸田さん。「それでも何らかの理由で金魚が減り、池に見に行ったときに大きくなってしまっていると、ああ、失敗だと思うこともあります」。

産卵と孵化においても、大和郡山ならではの工夫がある。金魚の産卵においては、金魚が卵を産み付ける「産卵藻」を必要とするが、大和郡山の養殖業者のほとんどは、周辺の山で産する羊歯(しだ)植物のヒカゲノカズラ(日陰蔓)を使用している。昭和30年代までは、柳の根を乾燥させたものを用いたといい、これが入手しにくくなったことから、ある養殖業者がヒカゲノカズラを産卵藻に使ったところ、採卵に成功。これが地域全体に広がったものである。

柳の根より、むしろヒカゲノカズラのほうが、柔らかくて金魚を傷つけず適しているといい、近年は人工の産卵用素材も登場しているが、利便性・経済性においてかなわない。ただ、近隣の山ではヒカゲノカズラを取り尽くし、幸田さんのところでは、山主と契約して採取してもらっている。

「金魚の産卵は、基本4月ですが、近年の温暖化によって早くなる傾向があります。そうなると具合が悪いこともあって、気温が安定していない時期に孵化すると、急に寒い日が来て稚魚が全滅してしまうこともあるのです。金魚の産卵は年に一度だけなので、そうなると一年が無駄になってしまいます」。苦労することでは、近年は鵜(う)などの鳥が増え、その食害も大きいという。そんななかでも、例年、幸田養魚場では200万匹から300万匹の金魚を出荷している。

「土のせいなのか、水が関係するのか、理由はわからないのですが、毎年、同じ池で金魚を育てると、だんだん育つ量が減っていったり、コイを飼っていた池を翌年に使わせてもらうと、大量に育ったりすることがあります。私が本格的に金魚の養殖に関わってから27年ほどになりますが、何度やってきても、これといった確立された養魚方法はないのです。なんでもその都度、自分の「勘」を頼りにやってきたところがありますね」。金魚という生き物を育むだけに、気候や環境とも向き合う仕事なのである。

「♪赤いべべ着た、かわいい金魚。おめめをさませば、ごちそうするぞ。♪赤い金魚は、あぶくを一つ。昼寝うとうと、夢からさめた」大正8年(1919)発表の童謡『金魚の昼寝』(作詞:鹿島鳴秋・作曲:弘田龍太郎)。金魚は、どこか郷愁を誘う存在でもある。金魚の出荷は6月から夏期がメイン。縁日で金魚すくいを見かけたら、久しぶりにやってみようか。

郡山城本丸跡にある柳澤神社
写真:郡山城本丸跡にある柳澤神社。柳澤家の祖、柳澤吉保を祭神とする。神社前が「お城まつり」での金魚品評会の会場にもなる。近年の大和郡山市では、観賞用の金魚の育成に取り組む人も増えているという

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