2026年03月05日 公開
写真:河内ワイン株式会社の工場内に展示されている、かつてワイン製造に使用された大桶(おけ)。初期のワイン醸造では、日本酒造りの道具やノウハウが用いられたという
あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず!「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。
およそこの半世紀、ワインが日本人の食生活に定着していくなかで、国産ワインへの注目も高まってきた。平成30年(2018)には、酒類行政を管轄する国税庁によって、国産の葡萄(ぶどう)を原料とし、日本国内で醸造されるワインが「日本ワイン」として定義され、国際的に認められる高品質、あるいは、日本の食に適した味わいの追求に拍車がかかっている。
そうしたなかで、国内各地のワインの地域ブランド化も進み、関西においては古くからの産地である大阪・河内地域のワインが、新たな展開を見せている。「河内ワイン」が育まれてきた背景と、そこから生まれた個性を探るとともに、羽曳野(はびきの)市に拠点を置くワイナリーにその現在をたずねた。
【兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)】
昭和31年(1956)、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年(1997)より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』(ともにウェッジ刊)。
【(編者)歴史街道推進協議会】
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体感し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。
平成28年(2016)、肥後熊本藩主・細川家伝来の美術品・歴史資料を所蔵公開する永青文庫から、ワインに関する興味深い古文書が発見された。豊前小倉城主時代の細川忠利が、家臣の上田太郎右衛門にワイン造りを命じたことを記す文書である。それによると、江戸時代前期の寛永4年(1627)から寛永7年(1630)の毎年、2樽(たる)ほどの葡萄酒を仕込ませて届けさせている。これが、国内最初のワイン製造の記録である。
その葡萄酒は「がらみ」と呼ばれた山葡萄を原料に、黒大豆の酵母を使って醸造したと、製法も示される。太郎右衛門の一族は、初期の南蛮貿易の拠点・平戸で西洋の知識と技術を取得したといい、医療にもあたっていた。太郎右衛門はそうした技量を見込まれ、忠利に抱えられた人物であった。
忠利は、この醸造の前後にも長崎で葡萄酒を買い付けるよう命じており、「甘きがよき候」と指示を添えたりもしている。近世期の葡萄酒は、薬酒と捉えられていて、病気がちだった忠利は、滋養のためにワインを常飲していたのであろう。
元禄10年(1697)に出版された、本草学の書『本朝食鑑(ほんちょうしょくかがみ)』に葡萄酒についての記載があり、製法について、山葡萄の汁を煮立てて冷ましたところに、日本酒と氷砂糖の粉末を加え、封をした甕(かめ)で醸成すると書かれている。江戸時代中期以降の国内で造られる葡萄酒とは、こうした葡萄果汁と酒を混合したリキュールのような混成酒を意味するようになり、本来の醸造によるワイン製造の記録は見られなくなる。
写真:株式会社河内ワインのワインセラー。後述する、地元の小学生が収穫した葡萄で造ったワインなどを保管している
日本の山に古来、自生する山葡萄が葡萄酒製造の素材に使われたのも理由がある。実は、江戸時代まで栽培種の葡萄産地は限られており、生産量も多くはなかった。
国内での葡萄の栽培は、12世紀の終わりごろ、鎌倉時代初期に甲斐(かい・現在の山梨県)勝沼で始まった。このときから栽培されてきたのは、日本固有の「甲州」と呼ばれる品種で、山野に自生していた変わった蔓草(つるくさ)を育てたところ、葡萄が実って発見されたと伝わる。江戸時代に入ると栽培が甲府盆地に広がり、特産品として江戸に出荷された。また、山形や京都、そして河内へと移植されていく。
享和元年(1801)発刊の地誌『河内名所図会』に、南河内の中心的都市・富田林(現在の富田林市)が、葡萄の産地として紹介されている。農家の前栽に葡萄棚を設け、初秋の頃に鈴のごとくなった実を市に出したと書かれ、また、葡萄酒も名産と知られたと記す。富田林は酒造も盛んで、この葡萄酒も日本酒との混成酒であったとみられる。天保元年(1830年)頃から、堅下(かたしも)村(現在の柏原市)などの河内地域に栽培が広がり、幕末にかけて自宅の庭で育てる農家が増加していったという。
本格的なワイン製造の進展は、西欧文化の導入と殖産興業が図られた明治時代を迎えてから始まる。明治10年(1877)、葡萄栽培の先駆地・山梨県で行政が主導して葡萄酒醸造所が開設され、製造販売会社も創設された。こののち、北海道札幌、兵庫県播磨などでも葡萄園が設けられ、ワインの製造が試みられる。民間においてもワイン生産への希望を抱いて起業する人たちが現れた。
しかし、ワイン製造のために導入したヨーロッパ種の葡萄の木が、高温多湿の日本では育ちにくく、また、醸造技術も未熟で安定した品質で生産するのが難しかった。さらには、葡萄の木の大敵である葡萄根油虫(ぶどうねあぶらむし・フィロキセラ)の外来によって、葡萄畑が壊滅的ダメージを受けるなど、ワイン生産は困難を極め、事業の撤退が相次いだ。
なにより、まだ洋食が一般的でなかった明治時代において、本格的なワインは広く受け入れられるものではなかった。かろうじて糖分や香辛料などを添加した甘味葡萄酒が、滋養酒として支持を得て、ワイン製造を支えていくことになる。
明治11年(1878)、2年前に南河内の道明寺村(現在の藤井寺市)に開設された葡萄試験園で配布された甲州葡萄の苗木をもとに、堅下村の中野喜平が育成に成功。これを起点に、河内地域での葡萄園による本格的栽培が発達する。明治32年(1899)には、日本の気候でも栽培しやすいアメリカ種を導入。のちに地域の中心的品種となるデラウェア種の栽培も始まった。大正時代に入って間もなく、河内でも葡萄根油虫が発見されるが、耐性がある木を台木に椄ぎ木をするなどの対策も普及していて被害が抑えられている。
大正3年(1914)には、駒ヶ谷村(現在の羽曳野市)でもデラウェアを移植して葡萄栽培が始まる。以後、生駒・金剛山地間の西側にあたる一帯の土壌・気候が葡萄育成に適していたことがあり、栽培面積・収穫量ともに急増。昭和10年(1935)ごろから、河内を中心にした大阪府の葡萄生産高が全国一となる時期が続いた。

写真:「河内ワイン館」で展示紹介されている、かつて使われたボトルやパンフレット
葡萄栽培が繁栄するなか、河内でのワイン製造も図られる。そこには地域の事情があった。山麓にある河内の葡萄園は台風による被害を受けることが多く、傷ついて出荷できない葡萄が大量に発生することがしばしばであった。そうした葡萄を活用するために、政府はワインの製造を呼びかけ、醸造免許を発行したのである。堅下村では、大正3年(1914)に地域で最初の醸造所が創業され、3年後にはワインの出荷を開始した。
昭和9年(1934)、京阪神地域を襲った室戸台風は、河内地域の葡萄農家にも甚大な被害を与えた。政府は特例として被災した果実を利用できるよう、すべての葡萄農家に醸造免許を交付。その数は119軒に及んだ。
「そうはいっても、当時の葡萄農家の大半は小規模な家族経営で、醸造免許があってもワインを製造する設備はなく、製造方法も売り方も知らなかったのです。また、ワイン造りは継続することで成り立つ事業でもあって、来年はどうするかわからないということでは、始めることはできません。そんななかで、面白いじゃないか、やってみようという地元の人が何人かいて、その一人がうちの曽祖父の金銅徳一(こくどうとくいち)でした」。そう語るのは、曽祖父が起業した「金徳屋(こんとくや)洋酒醸造元」を前身として引き継ぐ、「株式会社河内ワイン」代表取締役社長の金銅重行(しげゆき)さんである。羽曳野市駒ヶ谷の本社で運営する「河内ワイン館」は、地域の観光スポットとしてよく知られている。
かつての河内ワインは、一升瓶に詰めた素朴なワインとして知られた。金徳屋洋酒醸造元では、創業以来、ワインだけでなく、ブランデー、梅酒なども製造販売。戦後は大手酒類メーカーの製造受託先として事業を拡大したという。
昭和53年(1978)には、河内産葡萄100パーセント使用の自社製造ブランド「河内ワイン」を販売開始。イベントなどにも参加して、地ワインの味と知名度を広げていく。平成8年(1996)には、社名も「河内ワイン」と変更して株式会社に。そして平成9年(1997)、重行さんの父である先代・金銅徳郎氏が「河内ワイン館」を完成させる。自社ワインを直売する、人が集う場を、という思いを込めた施設であった。しかし、不幸なことに徳郎氏はまもなく急逝。当時、重行さんは20歳の大学生であったという。
会社の経営を祖父と母に預けながら、大学を卒業後、酒類の卸会社で3年半勤務して修業したのち、重行さんは平成17年(2005)に、実家の河内ワイン社に入る。そして、15年前に社長となって以来、進めてきたのは、事業の大胆な刷新であった。ブランディングを一から見直し、それまでの販売取引先をすべて取りやめたことも。「河内ワインの古いイメージを変えたいということがありました。それは先代、先々代の思いでもあったと思います。『日本ワイン』が注目されていますが、その代表として河内ワインを期待に応えるものにしたいということでもあります」。
醸造にも関わる金銅社長は、自身が納得できる品質を追求してきた。ヨーロッパ系の葡萄品種も自社圃場(ほじょう)で栽培して製品の幅を広げる一方、地元名産の食用葡萄で、古くからワインの原料ともしてきたデラウェアにこだわる。「現在も栽培している半分以上はデラウェアです。ただし、そこから同じワインを造るのではなくて、甘口、辛口、スパークリングと製法を変えて異なるワインを製造しています。最近は皮ごと原料にしてオレンジワインも造りました」。
金銅社長が事業の基本としてきたのは、生産量が限られる中小規模のワイナリーであることを踏まえ、製品を大手小売店に卸すのではなく、ワイナリーにお客さんに来てもらい、ワインに親しんでもらうことでファンを増やすことであった。そのために力を入れてきたのが、工場見学の企画である。ワインセミナーにテイスティングやランチも組み合わせた団体対象のプランを予約制で受け付けている。「インバウンドの見学者も少なくありません。台湾の方が多く、香港、シンガポール、欧米の方もおられます。なかには、バイヤーとして来られる人もいて、海外の販路にもつながっています」。すでに製品の約15パーセントが輸出されているという。
ワイナリーを訪れて地域の人と文化に触れるという旅のスタイルが、ワイン生産国において1980年代から始まり、すでに定着している。国内の生産地でも地域活性化において着目され、近年、取り組みを進めるところが出てきた。金銅社長の進める事業もその流れに沿う。
河内ワイン社では、法人を対象に葡萄栽培と収穫体験の企画も実施している。育てた葡萄をオリジナルワインに仕上げ、購入してもらうというものである。収穫には家族で来訪する人たちが多いといい、300人ほどが参加。ほとんどがリピーターである。「こうした事業を通じて、葡萄作りやワイン製造への理解を深めてコミュニティを広げていければ」と金銅社長は思いを語る。
ユニークな企画として、地元小学校の6年生を対象に葡萄収穫の体験学習を実施し、収穫した葡萄をワインにして保管。子どもたちが20歳になったときに、初めてのお酒としてプレゼントしている。小学校の校章には葡萄が取り入れられているといい、地域から飛び立つ青年たちに、故郷の産物、歴史文化としてワインの存在を胸に刻んでもらうことを願う。
「この地のワイン造りをどうすれば広く知ってもらえるか。頭を絞ってそのことを考え、新たなことに挑んできました。父が言っていたことで印象に残っているのは、『商いは飽きさせたらあかん』という言葉です。私もその遺伝子を引き継いでいるのかなと思います」。創業して92年。100周年に向けて、金銅社長のチャレンジはまだまだ続きそうである。
写真:河内ワイン社の製品ラインナップ。メインになる「金徳葡萄酒」シリーズのラベルには、ワイナリーの東にそびえる二上山が描かれ、各ワインのテイストに相応しい時間帯の風景になっている。シリーズを代表するデラウェアは、若々しく爽やかな味わいにデラウェアがほのかに香る。寿司などの和食にあうワインである。ほか、オーク樽で熟成したクオリティ重視の「KONTOKUYA」、年ごとに自由な発想で挑む「KIEI」などのシリーズがそろう
更新:03月06日 00:05