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吉田茂が愛した「大磯」 軽井沢を凌ぐ明治の避暑地No.1の意外な歴史

2026年05月26日 公開

宮本昌孝(作家)

『東海道五拾三次之内 大磯 虎ヶ雨』(東京都立中央図書館蔵)『東海道五拾三次之内 大磯 虎ヶ雨』(東京都立中央図書館蔵)

大磯(おおいそ)の旧吉田茂邸で、「小説『松籟邸(しょうらいてい)の隣人』でめぐる大磯」という企画展が開催されています(2026年6月30日まで)。
松籟邸とは、戦後に首相を務めた吉田茂が暮らしていた邸宅で、『松籟邸の隣人』(全3巻、宮本昌孝著)は、明治20年代の大磯を舞台に、少年時代の吉田茂と松籟邸の隣に越してきた青年が、様々な事件を解決していく連作ミステリーです。
明治時代後半には「避暑地百選」の第1位にもなったこの街の歴史と魅力に、宮本昌孝氏が迫ります。

※本稿は、『歴史街道』2024年1月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

大磯宿は人気の観光地だった

神奈川県の相模湾に面した湘南一帯は、国内有数の観光地として音楽・映画・ドラマ・バラエティー番組などで繰り返し登場する。東から挙げれば三浦・横須賀・葉山・逗子・鎌倉・藤沢・江の島に、加山雄三とサザンオールスターズ揺籃の茅ヶ崎。

ところが、それより西の地で紹介されるのは、七夕祭の平塚と城のある小田原ぐらいで、平塚〜小田原間の地域は分が悪い。

わけても大磯は、県内の東海道本線の駅としても乗降客が少なく、かなり地味な印象である。しかし、実はこの地は歴史エンタメの宝庫のようなところなのだ。

万葉の昔から多くの和歌に詠まれてきた。大磯に遺る地名の鴫立沢(しぎたつさわ)は、誰しも高校の古文の授業で習ったことだろう西行法師の名歌で知られる。
 心なき身にもあはれは
     知られけり
    鴫立つ沢の秋の夕暮
鎌倉時代の仇討ちの実話で、能・浄瑠璃・歌舞伎などでも再生、上演され続け、国民芸術ともいえる"曽我物"。その主人公・曽我十郎の恋人虎御前が庵を結んだのは大磯であり、関連して「虎ヶ雨」という季語も伝わる。

戦国期には上杉謙信が小田原攻めの本陣を布いた。徳川の世でも当初から東海道の要衝で、最盛期に人口3000人を超え、本陣3軒、旅籠屋66軒を数える繁華な宿だった。

「著盡湘南清絶地」
寛文4年(1664)頃に大磯の俳諧道場「鴫立庵」を創始したとされる崇雪(そうせつ)が、標石に刻んだ語であり、湘南は清絶を尽きつくすの地、と読む。湘南はこのうえなく澄んで清らかな地、というほどの意だ。
標石の実物は、現在も大磯町郷土資料館の庭で見ることができる。大磯を湘南の発祥地とする証拠ともいわれる。

ちなみに、ご存じの読者も多いだろうが、相模国(神奈川県)の南海岸だから、本来は「相南」と記すところを、中国の景勝地である湖南省の湘江に因んで、「湘南」の字があてられた。 

風光明媚で、ひともたくさん集まった大磯宿は、江戸時代を通じて、永く人気の観光地だったともいえよう。

しかしながら、幕府や藩の管理下に置かれた宿というのは、地子(じし/税金)の免除や給米などの助成があっても、御用が多すぎて過重の負担を強いられつづけた。四宿と称ばれた千住・板橋・内藤新宿・品川のように大きな歓楽街としても発展を遂げたところを除けば、いずこの宿も借金に苦しむのが常だった。
大磯も例外ではない。それでも、自転車操業みたいなもので、参勤交代に伴う文化や経済の流通地として賑わっているうちは、やっていけた。

 

復活の立役者は松本順(じゅん)

大磯が急速に寂れるのは、明治5年(1872)に宿駅制そのものが廃止されてからだ。参勤交代制度については、すでに幕末に崩壊している。

名ばかりは依然として宿あるいは駅だったが、旅籠屋の大半は廃業を余儀なくされ、宿内の半分以上が失職世帯へと堕す。このまま何の手も打たなければ、やがて大磯宿は朽ち果てて廃墟と化してしまうだろう。令和時代の日本で想像するなら、シャッター通りの景色に似ているかもしれない。

しかも、同じ神奈川県内に驚嘆の躍進をつづける新開地があった。狐狸が日中でも我が物顔で往来する海辺の寒村だったのに、日本最大の国際貿易都市へと変貌した横浜である。落差は月と鼈(すっぽん)どころではない。

この大磯を劇的に復活させた人物がいる。
名を松本順という。

西洋医術の先駆者として名を残す蘭方医 ・佐藤泰然(たいぜん)の次男だが、将軍家奥詰御医師・松本家へ養子に入ると、幕命により長崎に赴いてオランダ陸軍軍医ポンペの助手をつとめながら、わが国初の西洋式病院、長崎養生所を開設した。帰府後は幕府西洋医学所(後年の東京大学医学部)頭取となり、その改革に取り組んでいるさなか、幕末の動乱に巻き込まれる。

海陸軍医総長でもあった順は、幕府方として激戦地の会津へも赴き、みずから戦傷兵の治療にあたった。朝敵として捕らえられたが、ほどなく放免され、新政府に請われて初代陸軍軍医総監となる。

最新の西洋医学にもとづく海水浴の効用を予て自著でも説いていた順は、退官後、海水浴療法の条件に最適の地として大磯を選び、地元の名士たちの協力を得て、本格的な海水浴場を照ヶ崎海岸に開設する。さらに、伊藤博文首相を口説いて鉄道局に働きかけ、東海道鉄道の横浜〜国府津間において、当初の予定では通過地域だった大磯への停車場誘致にもこぎつける。

また、河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)に依頼した新作歌舞伎「名(なに)大磯湯場(ゆばの)対面」を、尾上菊五郎や市川左團次ら人気役者に演じさせるなど、PR活動にも順は抜け目がなかった。 

東京や横浜から海水浴客が汽車に乗って大磯へ殺到した。避暑、避寒のため、別荘を建てる上流の人士も急激に増えてゆく。陸地近くまで寄せる暖流と北風を遮る丘陵との間に横たわる大磯は、東西に細長い土地なので、冬でも雪は滅多に降らないことから、避暑だけでなく避寒の好適地でもあったのだ。

大磯駅開業年の明治20年(1887)に早くも、ときの内務大臣・山県有朋が"小淘庵(おゆるぎあん)"を建てた。その後は、著名人の別荘建設ラッシュである。すべての名を列挙すると3桁になってしまうので、政財界の頂点というべき人物だけを以下に記しておく。

伊藤博文、大隈重信、西園寺公望、加藤高明、寺内正毅、原敬、吉田茂。山県を含め八人の総理大臣経験者である。大磯が"政界の奥座敷"とも称ばれた所以といえよう。

三菱の岩崎弥之助に、三井高棟、安田善次郎。ここに住友も加われば、四大財閥の総帥が大磯に揃い踏みだったことになる。ついでに記せば、住友財閥を継ぐはずだったのが、事業にまったく興味を示さず、廃嫡されて芸術家として生きた住友寛一は、大磯に別荘を所有した。他の財閥では、それぞれ創業者の浅野総一郎と大倉喜八郎の名が挙げられる。

実業界最高の指導者だった渋沢栄一も、別荘は持たなかったが、照ヶ崎海岸で医院と旅館を兼ねた禱龍館(とうりゅうかん)の建設に出資している。もし彼らの財力を合わせたなら、大磯から日本経済を意のままにできただろう。

セレブの別荘族は、家族だけでなく、多くの使用人も連れてくるので、とくに夏場の大磯は人で溢れた。

明治40年(1907)前後が大磯の好景気のピークであり、日本新聞社による同41年(1908)実施の「全国避暑地百選」では、軽井沢をおさえて、堂々の第1位に選ばれる。鎌倉は11位、江の島は39位だった。現在のように様々なメディアがあれば、数多の取材クルーやタレント、モデルなども押し寄せ、東西約8キロメートルばかりの大磯町は連日ごった返していたに違いない。

 

吉田茂邸が迎賓館

別荘族の中で、大磯を誰よりも愛したのは吉田茂だろう。

横浜で実業家として成功した養父・吉田健三は、山県よりも早く大磯に別荘を建てて"松籟邸"と名付け、茂を伴い、この地で夏に冬に大いに遊んだ。茂にとっては幼少期の楽しい思い出である。

健三が若くして他界すると、病弱な養母の士子(ことこ)が療養をかねて松籟邸で暮らすようになる。士子を敬愛していた茂も、その身を案じ、学生時代の夏休みなどは大磯で過ごしたと察せられる。

茂は、大磯の景色も大好きだった。総理大臣を辞したあと、横浜でも東京でもなく、この地を終の住処としたのも、"海千山千荘"とも称した松籟邸から眺める雄大で美しい相模湾と富士山に魅了されたからだ。

そして、外国の賓客を私邸でもてなす欧米流に倣い、松籟邸を増改築し、迎賓館としても用いた。国家元首や閣僚クラスばかりか、大統領になる前のニクソン、大富豪ロックフェラー、アレクサンドラ英王女夫妻など、多数の海外の要人を歓迎している。皇太子(現上皇)御夫妻を招いたこともある。

地元の人々とも気軽に交流して、人柄を親しまれた吉田茂は、昭和42年(1967)10月に松籟邸で死去する。

大磯の町内では各戸ごとに半旗を掲げ、近隣住民は国道1号線の沿道から、国葬の行なわれる東京の武道館へ向かう葬列を見送った。その数、5,000人という。大磯に海水浴場の開かれた明治18年(1885)から82年後の、巨星墜つである。

すでに関東大震災で別荘の半数以上が倒壊し、以後はあらたに別荘族となる著名人も稀となり、海水浴客も激減の一途を辿っていたから、吉田茂の死によって大磯はさらに活気を失っていく。
昭和54年(1979)に大平正芳首相とカーター大統領の日米首脳会談は吉田邸(松籟邸)で行なわれたが、これが最後のひと花だったろう。

 

島崎藤村も愛した地

大磯史跡MAP

数年前、少年時代の吉田茂を主人公にした小説(『松籟邸の隣人』)を書こうと思い立ち、初めて大磯の町を歩いたとき、良く言えば穏やか、悪く言うと沈滞。それが第一印象である。といって、落胆したわけではない。ここが第1位の避暑地だったのは事実なのだから、かえって想像を逞しくすることができた。

吉田邸も明治期の松籟邸とはまったく異なる規模と造作だが、屋内、敷地内を経巡るうち、自然と脳内でタイムリープが始まっていた。帰途について大磯駅から電車に乗る頃には、おぼろげだった小説のアイデアに具体性が伴った。

そして、これだけは記しておかねばなるまい。大磯がいまや再び復活の時を窺っているということを。

明治の歴史的建物や緑地の保存、活用をめざして、明治記念大磯邸園という事業を進行中なのだ。全容を知らないものの、何やら期待してしまう。

2度目の大磯逍遥では、その事業の第一期開園として公開中の旧大隈重信別邸、陸奥宗光別邸跡に建つ旧古河別邸の建物まわりの庭園を歩いた。通常は屋内の見学は不可だが、取材ということで出版社から申し入れてもらい、明治時代の住居部分の現存する大隈別邸内で、昔日のよすがに触れることもできた。

その後、横浜を本拠とする老舗書店の広報紙に『明治大磯ロマン』というエッセイを寄稿したところ、思いがけない好運に恵まれた。大磯に明治31年(1898)開業の旅館・大内館を営んだ方々のご子孫だろう女性から、お便りを頂戴したのだ。

惜しくも数年前に閉館してしまったが、大内館にはかの島崎藤村も宿泊している。女性の母堂は明治生まれで、松本順が始めた「禱龍館」や、照ヶ崎で遊泳指導や事故防止につとめる「海水じいや」や「波のり」などを、実際に目にしておられ、生前、それらのことを語ってくれたそうだ。伊藤博文が大磯に来るときは小旗を振って迎えたという。
筆者も文献では知っていたものの、女性のお便りによって往時の光景が目の前に立ち上がってきた。この場をかりて、感謝申し上げる。

島崎藤村は、大磯がよほど気に入ったものか、最晩年の2年間を、この地に居宅を設けて過ごした。庭を眺めながら息を引き取るさいに、こう洩らしたという。
「涼しい風だね......」
昭和18年(1943)夏のことだった。最も人気の高かった避暑地の余風は、この頃にもまだ吹いていたのかもしれない。

当時としては長命の89歳で逝った吉田茂も、主治医の懐旧談によれば、よくこんなふうに語ったそうだ。
「鎌倉より大磯のほうが酸素が多い。大磯にいると長生きできる」
軽口だったとしても、本気でもあったろう。前述の事業の完工を、茂は泉下で心待ちにしているはずだ。

プロフィール

宮本昌孝(みやもと・まさたか)

作家

昭和30年(1955)、静岡県浜松市生まれ。日本大学芸術学部卒業後、手塚プロダクション勤務を経て執筆活動に入る。平成7年(1995)、『剣豪将軍義輝』で一躍脚光を浴びる。平成27年(2015)、『乱丸』にて、第4回歴史時代作家クラブ賞作品賞を受賞。令和3年(2021)、『天離(あまさか)り果つる国』(上・下)にて、「この時代小説がすごい! 2022年版」(宝島社刊)の単行本部門で第1位を獲得。おもな著書に、『風魔』『ふたり道三』『松籟邸(しょうらいてい)の隣人』(全3巻、PHP研究所刊)などがある。

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