2026年06月10日 公開
写真:中山道の高宮宿に建つ、多賀大社「一の鳥居」。寛永12年(1635)の建立の記録がある
あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず!「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。
滋賀県琵琶湖の東側・湖東地域を、旧街道である中山道が通る。東海道とともに京と江戸を結んだ基幹道であり、街道の宿場は旅人で大いににぎわい、また、地域の商人たちはこの街道を利用して各地に雄飛し、近江商人の名で全国に知られることになった。
その近江商人たちが当初から扱った地元の産物が、麻織物であったという。その系譜は今も引き継がれて、高級織物「近江上布(おうみじょうふ)」として知られ、国指定の伝統的工芸品にもなっている。湖東中山道の宿場の歴史とともに、近江上布の過去と現在を、生産の中心地・愛荘町にある施設でたどる。
【兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)】
昭和31年(1956)、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年(1997)より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』(ともにウェッジ刊)。
【(編者)歴史街道推進協議会】
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体感し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。
古代の律令制時代、畿内から東国・東北地方につながる官道・東山道が敷かれた。中山道はこの道を基礎に、東海道などとともに江戸幕府が整備した五街道の一つであり、江戸日本橋から京都三条大橋の間に69次の宿場が設けられた。江戸・京都間においては、東海道より遠回りになり、峠も多かったが、太平洋沿岸を通る東海道は、増水でしばしば通行ができなくなる河川が多く、安定して通行できる中山道を利用する旅人や、参勤交代の大名も多かった。幕末、将軍家に降嫁する和宮の一行がこの道を通ったこともよく知られている。
近江国(滋賀県)においては、関ヶ原方面から入って、柏原(かしわばら)・ 醒井(さめがい)・番場・鳥居本・高宮・愛知川(えちがわ)・武佐(むさ)・守山の宿場を経て、草津宿で東海道と合流し、大津宿を経由して京都三条大橋に至った。
それらの近江の宿場で特に栄えたのが、中山道の宿場のなかでも第2の規模を誇ったという高宮宿であった。彦根城下と結ぶ彦根道との合流地にして、伊勢神宮と並ぶほどの参拝者が訪れた多賀大社へと向かう参道の分岐点という要衝の利があったが、周辺地域で生産される麻織物の集散地となったことが、経済面の繁栄にとって大きかった。
写真:近江上布伝統産業会館内で展示されている、「絣(かすり)」生地の着物と「生平(きびら)」の帯の見本
湖東地域では、室町時代から麻織物が生産され、贈答などに用いられたことが古文書に記されている。なかには、多賀大社の神職が、豊臣秀吉に朝鮮出兵の陣中見舞いとして帷子(かたびら)五端を送ったという記録もあり、珍重されていたことがしのばれる。
江戸時代に入ると、彦根藩が麻織物を保護・統制するなかで、地域の農家の副業として生産が盛んとなり、それを仕入れて販売する問屋・小売りを兼ねた店が高宮宿に建ち並び、江戸時代後期には十数軒を数えた。その製品は「高宮布」と呼ばれ、「奈良晒(さらし)」「越後縮(ちぢみ)」と並ぶ、名産品として全国に知られることとなる。
そうした高宮の麻織物問屋のなかでも格別の存在として名が伝えられるのが、「布惣(ぬのそう)」である。幕末の安政期(1855-1860)ごろには、7つの蔵を構え、それを満杯にする高宮布が年に12回、集荷と出荷を繰り返すのが通例であったという。現在も当時の隆盛を伝える5つの蔵と旧宅の建物が高宮宿に残っている。
これほど湖東地域で麻織物産業が発展した理由として、地理的にも生産に適していたことが挙げられる。周辺の山々から琵琶湖に注ぐ河川や湧水が、布の製造において大量に必要とする清水を供給できたこと。また、伸縮性がない麻の繊維は乾燥すると切れやすく、琵琶湖によって湿潤な気候が保たれることも、機織りの作業に有利であった。
素材である麻糸を現地で生産するのではなく、早くからほかの生産地より買い入れていたことも、大量生産を可能とし、産業としての確立につながった。良質の麻糸として知られた、群馬の「岩島麻」や栃木の「野洲麻」を仕入れて製造したといい、ここでも中山道という輸送路と近江商人が大いに活躍したとみられる。
明治維新は、近江の麻織物産業にとっても大きな転換点となった。彦根藩の保護を失うとともに、鉄道の開通など交通の近代化によって、街道の宿場を拠点とした高宮布は衰退。代わって、もともと織物の生産地であった愛知川周辺に織機を導入した工場が設けられ、麻織物産業の中心地となっていく。
一方で、湖東地域の生産者たちは手織りの技術の継承にも取り込んできた。その伝統の手織り技法で織られた上質の麻織物を「近江上布」と称し、昭和52年(1977)に国の伝統的工芸品に指定されている。
「滋賀県では、琵琶湖を中心にして周辺地域を、湖北・湖南・湖西・湖東という言い方をします。湖北には浜縮緬(ちりめん)という絹織物があり、湖西には高島ちぢみという綿織物が伝えられています。同じ県のなかに三種の自然素材の産地が存在するのは滋賀県だけです。そのなかでもっとも古いのが、湖東地域の麻織物です。そして、絹と綿の織物生産は、現在はすべて機械化されていて、昔からの手作業による織りの技術を唯一残しているのも、もっとも古いこの湖東の麻織物なのです」と語るのは、愛荘町にある近江上布伝統産業会館の事務局長・田中由美子さんである。
同会館は、滋賀県麻織物工業協同組合の拠点で、地元の麻織物の生地や商品の販売のほか、近江上布の職人の育成、手織り体験などを通しての織物文化の発信も進めている。
写真:「地機(じばた)」を使って生平を織る。現在は、和装の帯として織ることが多い。地機は「腰機(こしばた)」ともいい、織った布の側を巻き付ける棒を腰に固定し、体重を後に掛けることで経糸(たていと)が張り、前に体重を移して緩めると経糸が上下に分かれて緯糸(よこいと)を通せるようになる。体を織り機の一部のようにして体重の掛け方を調整するのが大事という。織れるのは1時間で10センチほどとか
現在、世の中に出回る衣料に使われている麻布の80パーセントから90パーセントは、リネンであると田中さんは教えてくれる。リネンは亜麻(あま)という植物の繊維から織られたもので、肌触りの柔らかさを特徴とする。ただし、この亜麻は欧州原産で、リネンが日本で普及したのも明治時代中期以降のことという。
「近江上布には、『生平(きびら)』と『絣(かすり)』という2種の織物があり、こちらは古来から日本にある大麻(おおあさ)・苧麻(ちょま)の繊維を素材としています」と、それらの詳細も田中さんが説明してくれる。
「生平」は室町時代とほぼ同じ技術で作られており、染色した糸は使わず、緯糸に大麻の「手績(う)み」の糸を使用する。手績みとは、植物の繊維を割いて指先で縒(よ)り合せて糸にすること。非常に時間を要する。織り機も、現在はほかで使われることがない「地機」と呼ばれる古い形式のものを使用。生平を織っているのは、伝統産業会館に所属する職人のみである。
大麻は、繊維としてはヘンプともいい、丈夫だが、粗野な固い素材とみなされてきた。ただし、加工の仕方で柔らかな繊維にもできる。古くから日本で麻といえば、この大麻を指したが、現在、伝統的工芸品に指定されている麻織物のなかで大麻を用いるのは、近江上布の生平だけである。大麻も伝統産業として認められた地域でしか、栽培が許可されていない。また、亜麻や苧麻の繊維は、近代の紡績技術によって糸にしやすかったが、大麻の繊維は不向きであまり糸に加工されなかった。そうした事情から、繊維表示においては「麻」と表示できず、指定外繊維の扱いを受けていたが、近年はようやく「大麻」と表示することができるようになったという。
「とはいっても、大麻は苧麻とともに縄文時代から布を作るために使われてきた植物です。特に大麻の繊維は、日本では古くから清浄な資材と見なされ、織った布は『荒妙(あらたえ)』と呼ばれて、絹を織った『和妙(にぎたえ)』とともに神事で調進されてもきました」。
「絣」のほうは、苧麻の糸を使用。苧麻は「からむし」「青苧(あおそ)」とも呼ばれ、織物としては英語のラミーという名称もよく使われる。独特のシャリ感があり、主に夏用の衣類に用いられる。
「近江上布の絣は、糸を先染めして模様を織り出しますが、その糸を染めるのに特殊な技法を使っています」と田中さん。その染色技法が、「型紙捺染(なせん)」と呼ばれるもので、反物の幅に合わせた「羽根(はね)」と呼ぶ金枠に、緯糸に使用する糸を緻密に整列させながら巻き付けてキャンバス状にし、絣の柄が彫られた型紙をのせて表裏を染める。そののちに糸をほどいてまき直し、あらかじめ糸に付けておいた「耳印(みみじるし)」を、織るときの左右の折り返し点として合わせながら、絣の模様を織り出す技法である。左右の端に違う色の耳印があることが、手織りの証ともなる。
「国の伝統的工芸品に申請するためには、幾つかの要件をクリアしなければいけません。その一つが、製造作業の大部分が手作業であること。ニつ目が日本の伝統的技術と原料を使っていること。そして三つ目が日常品であることです。ただ、昔は日常的に使っていたものも、使われなくなって消えてしまったり、嗜好品や高級品になってしまったりしているものも多く、努力しなければ、日常品として残っていくことはできません」と苦労を述べる田中さんだが、可能性についても語る。
「手織りの近江上布は、機械で織ったものとは、作り方も仕上がりも全く違う。これを残していくことには、手織り・機械織りのどちらにとっても相乗効果があると思っています。当会館では、機械織りの麻布を素材にした、ハンカチや布巾、洋服なども扱っていますが、使ってみると、吸水性が優れるだけでなく、発散性もよくて乾きやすい。清潔を保ち快適です。そうしたことから愛用してくださる方もおられるのですが、そこには近江上布の産地でこその、安心・安全な品質への信頼があります。そして、これらの麻製品を利用してくださるなかで、いつか最高級の手織りの近江上布を使ってみたいという方もあることを願っています」。
会館で織りの実演を、20歳代という若い職人さんが見せてくれた。もとは違う仕事をしていたが、3年前に初めて研修を受け、職人の仕事ぶりや会館の活動を見て、こちらで仕事をしてみたいと思ったのだという。近江上布という伝統工芸が、新たな世代の視点のなかで、新しい意味を持ち始めていることを感じた。
写真:近江上布伝統産業会館が1階に入る「ゆめまちテラスえち」。古い洋風の建物は、旧愛知郡役所だったところ。ここから徒歩で10分ほどの旧愛知川宿には、旧銀行の施設を活用した「愛知川ふれあい本陣」があり、観光情報を発信するほか、宿場や地域の歴史文化を紹介している
更新:06月12日 00:05