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伊賀忍者の携帯食がルーツ? 素手ではなかなか割れない日本一固い煎餅「かたやき」がすごい

兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)

名張市の南西、黒田の地の山手から中心市街地を望む写真:名張市の南西、黒田の地の山手から中心市街地を望む

あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず!「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。

三重県西部の内陸の地、伊賀。山々に囲まれたその盆地を、古くから人は生活圏とし、近世には、盆地北側は上野城の城下町、南側は名張陣屋のもとでの宿場町として栄えた。現在は、それぞれ伊賀市と名張市の市街地となっている。

伊賀といえば、忍者の故郷としても知られる。その忍者ゆかりの地域の銘菓が「かたやき」である。小麦粉に砂糖を加えて練った生地を鉄板の上で丸く焼き上げた、名の通りの固さで知られる煎餅(せんべい)で、忍者の携帯食が起源といわれる。

特に名張は、忍者の盛衰に深くかかわる場所。その歴史をたどるとともに、この地で営む名店を訪れて、かたやきに寄せる地域の思いを聞いた。

【兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)】
昭和31年(1956)、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年(1997)より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』(ともにウェッジ刊)。

【(編者)歴史街道推進協議会】
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体感し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。

 

「隠(なばり)」と記された、忍者の発祥の地

『日本書紀』や『万葉集』では、名張は「隠」と表記されている。いかにも山々に隠された地という印象だが、三重県内第2位の規模の馬塚古墳を含む美旗古墳群が存在し、古くからの人の集住をうかがわせる。飛鳥や奈良の都から東国へと向かう街道筋にもあたり、古代の駅が置かれたといい、奈良時代に建立された夏見廃寺の遺構を見ることもできる。

平安時代後期、名張に東大寺の荘園である黒田荘(くろだのしょう)が成立。市南部にある極楽寺は、檀家(だんか)の人々が東大寺二月堂修二会「お水取り」で使われる松明(たいまつ)を調進することで知られ、荘園時代からの営為といわれる。もっとも、鎌倉時代に入ると、在地の荘官や地侍が領主化し、寺領の年貢とすべき収穫を略取する者たちが現れる。彼らは「黒田悪党(くろだのあくとう)」と呼ばれた。

立場を変えれば、悪党の出現とは、地域に根付いた人々「国人(こくじん)」の自立を意味する。南北朝時代には黒田悪党は南朝につき、同じく悪党と呼ばれた楠木正成(くすのきまさしげ)とも結んだ。その後も、室町時代を通じて国人たちは勢力を拡大し、伊賀一国を割拠して支配するまでに成長。そして、戦国時代を迎えると、外部からの侵攻に対して一味同心して防戦することを掟書(おきてがき)に定めた。この一国挙げての同盟を「惣国一揆(そうこくいっき)」という。

彼らは戦乱の世を生き抜くために、情報の収集に努め、また、地侍ならではの独特の戦術を発展させた。つまり彼らこそ、のちに忍者と呼ばれる者たちだったのである。

 

「天正伊賀の乱」忍者の最終決戦の城

伊賀忍者たちが立て籠もった「決戦之地柏原城」の碑が立つ勝手神社写真:伊賀忍者たちが立て籠もった「決戦之地柏原城」の碑が立つ勝手神社。実際に柏原(かしはら)城があったのは、近くの小高い山上という

伊賀惣国一揆を脅かす存在が現れる。伊勢国司の北畠具教(きたばたけとものり)を滅ぼして同国を掌握した、織田信長の次男・信雄(のぶかつ)が、隣接する伊賀へと食指を伸ばすのである。天正6年(1578)3月、具教が上野盆地に建設途中であった丸山城を、伊賀支配の拠点とするために、信雄は家老の滝川雄利(かつとし)に完成を命じて築城を開始する。

伊賀方の密偵によると、丸山城は石垣で固めた天守台に三層の天守を備えた本格的な城郭であったといい、危機感を抱いた伊賀衆は、城が完成する前に700名で襲撃。急襲になすすべもなかった滝川雄利は、撤退を余儀なくされた。これが「天正伊賀の乱」の発端となる。

翌天正7年(1579)9月、織田信雄は約1万の兵をもって伊賀国に侵攻を開始。しかし、事前に察知していた伊賀衆は得意とする奇襲を繰り広げ、信雄軍は重臣が討たれるなど甚大な死傷者を出して敗走した。この敗戦を知った信長は激怒したといい、伊賀衆への憎悪をたぎらせた。

他の戦線に一段落をつけた信長は、天正9年(1581年)9月、信雄を総大将に、主力武将たちが率いる5万の兵を配して、伊賀へ六方向から攻め入らせた。伊賀衆は野営地に夜襲をかけ、また、各地で籠城して果敢に戦うが、織田軍は容赦ない殲滅(せんめつ)戦を展開。集落・寺社を焼き払い、子どもや女性などの非戦闘員にも構うことなく、殺戮(さつりく)を遂行した。これによって当時の伊賀の人口9万のうち、3万人余が命を失ったといわれる。

後退する伊賀衆の最後の集結地となったのが、名張南端・赤目口の柏原城であった。激しい攻防が幾度か繰り返されたが、仲介者があり、籠城する兵と民の命の保障を条件に開城することで和議が成って終戦となった。この後、伊賀の指揮官の多くは国を出たという。

しかしながら、時代の転換は早かった。この伊賀の乱の翌年6月、織田信長は京都本能寺で横死する。政権の混乱を見て、国を出た伊賀衆たちは帰還し、地元の仲間と蜂起。柏原城ほか各地の城を奪還して、再び織田方に対決姿勢を示した。ただし、こののちに豊臣政権が成立し、さらに徳川の時代へと移り変わるなかで、伊賀衆は「忍び」として体制に組み込まれていく。特に本能寺の変の際、徳川家康の危機脱出行「神君伊賀越え」を伊賀衆が支えたことで、多くが徳川幕府に召し抱えられて伊賀同心を称することになる。

 

名張の上忍・百地三太夫も食べた「忍菓(にんか)」

かたやきを焼く、大屋戸重雄さん写真:かたやきを焼く、大屋戸重雄さん。専用の道具で平らな円形に整えていく

柏原城の決戦で籠城した伊賀衆のなかに、黒田悪党の末裔(まつえい)といわれ、赤目地域に屋敷を置いた百地丹波(ももちたんば)もいた。実名は正西といい、上級忍者「伊賀三上忍」家の一つ、百地家の当主で、丹波守(たんばのかみ)を称したことからこの通称がある。のちの忍者ものの物語に登場する百地三太夫のモデルでもある。

その百地丹波が持久戦に備えて、柏原城に持ち込んだという、かたやきにまつわる伝承が名張にある。江戸時代にまとめられた忍術の解説書『老談集』や『万川集海』には、忍者が任務中に用いた携帯食・非常食の存在と製法が記されている。「兵糧丸」「飢渇丸」「水渇丸」などといい、漢方薬の成分を取り入れて滋養も図るものであったが、かたやきのように軽く日持ちがする食料があっても不思議ではない。そうしたことから、かたやきは別名「忍菓」とも呼ばれている。

名張市で営業する、かたやきの製造直売店「大屋戸製菓」を訪れて、店主の大屋戸重雄さんに忍者との関わりを尋ねると、「忍者が食べているところを見たことがないので...」と、とぼけて笑う。といっても、店頭ののぼりに忍者が描かれ、知人の手によるという忍者姿のご自身をキャラクター化した絵も店内に飾られていて、やはり忍者とかたやきは切り離せないようである。

大屋戸さんに見せていただいた、昔ながらのかたやきの作り方はシンプルである。小麦粉に砂糖と水を加えて混ぜた生地を一晩寝かす。店によっては山芋を加えるところもあるらしい。これを太さ3センチほどの棒状にまとめ、2.5センチほどの長さに等分に切って熱い鉄板の上に並べ、一つずつ、胡麻(ごま)や青のりを振る。大屋戸製菓では、白黒の胡麻のみを使用。小・中・大の三種の丸い金鏝(かなごて)のような道具を順に使い、生地を鉄板に押し付けて円盤型に形を整え、あとは木の板で押さえながら弱火でじっくりと両面を焼き上げる。

大屋戸製菓では、蛍火のようなガスの火で一枚15分から20分ほどかけて焼いている。中までしっかりと固く焼き、甘さと香ばしさを出すには、これくらいの時間がかかるという。「火を強くして短時間で焼こうとすると、焦げてしまいます。理想は『鹿色』に仕上げることで、気温や湿度、生地の状態に合わせて焼き方を日々調整するのが、難しいところです」。

焼き上がりも固いが、冷めるとさらに固くなる。小さく割って口に入れ、少し柔らかくなってからでないとかみ砕けない。その割ること自体が素手では困難で、もう一つのかたやきの側面を打ち付けて割ったりする。そんな固さでも90歳を超えた高齢のファンもいて、定期的に購入してくれるという。かみ砕くのが無理なときは、お茶などに浸してふやかして食べる方法もある。

「うちでかたやきを製造するようになってから、まだ30年ほど。代々焼いてこられたところもあって、うちは新しいほうです」と、ご主人とともに従事する奥様の美葉さんがお店の経緯を教えてくれる。実はご主人の父が以前から和菓子店を経営し、饅頭(まんじゅう)などを製造していたそう。ご主人も後継ぎとして、大阪心斎橋の和菓子店などで修業。実家に帰って奥様と結婚されたころは、奈良県内の室生寺の門前に出張して、草餅の製造実演販売をしていたのだとか。ちなみに蓬(よもぎ)を生地に練り込んだ草餅も、名張の名物の一つである。

ところが、平成7年(1995)の阪神淡路大震災の影響で、室生寺を訪れる参拝者が激減。ここでの販売をあきらめ、次の事業として着目したのが、幼少の頃から地元のお菓子として親しんできた、かたやきであった。「名張にあった名店にお願いして、修業させてもらったのです」とご主人。「お店に後継がおらず、私に製造を継いでもらおうということでもありました」。そして修業後、実家のお店に戻り、かたやきの製造販売店として再出発したという。

ただ、和菓子職人の性(さが)からか、大屋戸製菓では「あん入りかたやき」というオリジナル商品も製造販売している。自家製のこし餡(あん)を柔らかめの生地で包んだ、かたやきである。「師匠からは、これはかたやきやないといわれましたが、なかなか好評です」。

大屋戸製菓は直売だけでなく、近隣の量販店や、赤目・室生・長谷(はせ)・御杖(みつえ)などの観光地の土産(みやげ)店にも納品している。今年、79歳になる重雄さんにとって、その需要に応えるのが、近年、きつくなってきたという。背景には、後継者不足による製造店の減少もある。「私が修業を始めたときには、名張にまだ5、6軒のお店がありましたが、今は当店を含めて2軒だけになりました」。

そんななかでも、年に2回、地元小学校の給食での提供を実施。体験学習での店舗見学にも協力している。「子どもたちは、かたやきが大好きなのですよ。それでお母さんが買いに来てくれることもあります」と美葉さん。よそに出向く人が、地域の土産として持参してくれることも多いとか。「固い煎餅ということで話題にもなりますし、割るための小さな木槌(きづち)付きのセットもあって、面白いと評判を得ています」。同じかたやきでも、店ごとでまったく味わいが違い、それぞれに固定ファンが付いているともいう。

「私が子どものころは、駄菓子屋さんで焼いて子どもたちに売っているところもありました。地元の人にとって、かたやきはそんな身近で親しみのある、こだわりたい食べ物なのです」と重雄さん。「修業した店は閉店してしまいましたが、おいしかったその味を私も守り続けたいと思っています」。

忍者について、誤解されているところもあるのではと、重雄さんの地元の視点からの意見もお聞きした。「ドラマなどで、黒ずくめの恰好(かっこう)で暗躍するわけですけれど、実際の忍者というのは、普段はただの一般の民衆でした。いざというときには、戦闘に立ち向かうということはあったのでしょうけれど」。そんな地味ながら力を秘めた忍者の存在と、簡素ながら滋味が豊かなかたやきとは、やはりどこかでつながっているように思える。名張で忍者を生み育てた民の文化が、かたやきの一枚にも宿ることを、当地で焼き続けるご夫婦に教えられた。

写真:大屋戸さんご夫婦。取材を受けながらでも二人で分担して、かたやきを返すタイミングを忘れない。その阿吽(あうん)の呼吸はさすが写真:大屋戸さんご夫婦。取材を受けながらでも二人で分担して、かたやきを返すタイミングを忘れない。その阿吽(あうん)の呼吸はさすが

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