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戦国時代というと、殺伐とした世を思い浮かべます。
でも、乱世にあっても人は人。主従の心通い合う様が伝わってくる逸話が、数多く残されています。頼りなさげな弱将や油断ならぬ謀将が見せる意外な横顔...。
そこからは、人間関係を良好に保つ秘訣も見えてくるかもしれません。
今回は、織田信長と武田信玄の意外な一面をご紹介しましょう。
家臣に厳しい主君としては、やはり織田信長を思い浮かべる人が多いだろう。完全能力主義で成果主義、かつ気の短い信長は、功績のある家臣に対しても、気に入らないことがあれば躊躇なく過酷な仕打ちをした。
例えば、30年以上にわたって信長の重臣を務めてきた佐久間信盛は、天正8年(1580)に信長から突如、19カ条の折檻状を突きつけられて家禄を没収された上、追放されてしまった。その理由は、「石山本願寺との戦いで積極性が見られない」というだけのものだ。
あるいは、その19カ条の折檻状のなかで、信盛と比較されて褒められている明智光秀も、戦国時代に来日した宣教師ルイス・フロイスの『日本史』によれば、信長の怒りを買って足蹴にされたことがあったという。
光秀が「本能寺の変」を起こした動機については諸説あるが、そのひとつとして信長の心ない仕打ちへの恨みが原因という怨恨説も根強い。
このように家臣に対して極めて厳しかった信長だが、一方で、羽柴(豊臣)秀吉の妻ねね(おね)に送った直筆の手紙を見ると、家臣の夫婦仲まで気遣う細やかさもあった。
天正9年(1581)ごろ(天正4年〈1576〉説もあり)、ねねは安土城を訪れ、夫である秀吉の浮気癖について信長に不満をこぼしたらしい。
この手紙はそのことについての返信で、信長はまずねねに対して「以前会った時より、あなたはずっと美しくなっていました」と褒めながら、「どこを訪ねても、あの禿ネズミに、あなた以上の女性は見つからない」とねねを持ち上げ、秀吉をこき下ろすことで、彼女の気持ちをなだめている。
ここだけ見ると、信長はたんにねねの味方をしているだけのように思えるかもしれない。だが、手紙の後半で信長は「正室なのだから堂々としていればいいんですよ」と、ねねの悋気をそっと窘めることで、間接的に女房の嫉妬から秀吉を守ってもいるのだ。
部下の妻の愚痴にここまで丁寧に対応する上司など、現代にもいないだろう。
それにしても見事なのが、信長の人間心理への理解の深さである。最初に十分ねねの感情に寄り添う姿勢を見せたあと、最後にさりげなく諭す。
もしこの順序が逆だったら、彼女の怒りは増すだけで、余計、秀吉は窮地に陥ったに違いない。信長の手紙がどこまで功を奏したかはわからないが、結果として夫婦仲は壊れることなく、ねねの内助の功もあって秀吉は天下人にまで登り詰めた。
手紙といえば、甲斐の大名・武田信玄が家臣に宛てた手紙も微笑ましい。その手紙は天文15年(1546)ごろに書かれたと思われるもので、当時、信玄の同性愛(衆道)の相手だった春日源助に、自分が浮気をしていないと言い訳をするという内容である。
具体的には、「確かに弥七郎に言い寄ったことはあるが、お腹が痛いと断られたので、寝てはいない。私はあなたと仲良くしたいと思って頑張っているが、疑われるばかりで困っている。もし私の言っていることが噓だったら、我が国の1、2、3の大明神、富士山、白山、八幡大菩薩、諏訪上下大明神からの神罰を受ける覚悟がある」というもので、まさに必死の弁明だ。
この手紙が書かれたのが天文15年ごろだとすれば、信玄が父・信虎を追放して5年後、家中を掌握し、諏訪を手中に収めて信濃国の切り取りへ野心を燃やしていた時期である。
そんな破竹の勢いの「甲斐の虎」こと信玄が、なんとか恋人の怒りを解こうとしている姿は、本当に人間臭い。恋仲になってしまえば主君も家臣も関係なく対等、いや惚れた弱みで主君が家臣のご機嫌を伺う場合もあるということだ。
ところで、信玄の送った手紙の相手である春日源助は、のちに武田24将の1人に数えられることになる高坂昌信だとも言われている。昌信の元々の名前は春日虎綱であり、さらに通称として春日源五郎とも名乗っていた。それゆえ、春日源助が高坂昌信のことだと考えられているのだ。
ただ、昌信が源助と名乗っていたこともあるという事実は、文書などにはいっさい残されていない。そのため、春日源助と春日源五郎は別人という説もある。
更新:04月20日 00:05