2025年07月30日 公開

人生とは何が起こるかわからないもので、それは戦国時代も変わらない。才知をもって家を守り抜いたかと思えば、晩年に思わぬ辛さを味わう者もいれば、城から追われる悲運を味わいながら、悪くはない最期を迎えた者もいる。ここでは、山名豊国と細川忠興という名族に生まれ、文化人として知られた二人の晩年を紹介しよう。
山名豊国は因幡守護・山名豊定の子で、天文17年(1548)に生まれた。応仁の乱の西軍の将・山名宗全の子孫にあたる。
山名氏は南北朝時代において、一族の分国が、日本60余国の6分の1にあたる11カ国にもおよぶことから、「六分一殿」と称されるほどの権勢を誇っていた。だが、豊国が登場したころの山名氏の勢力圏は、但馬・因幡の二国にまで減少していた。
やがて、豊国は因幡守護となり、鳥取城に本拠を置いた。
天正8年(1580)5月、因幡国に侵攻してきた秀吉に、鳥取城を包囲され、豊国は降伏し、織田権力に服属。鳥取城を安堵された。
ところが、同年7月に毛利家の吉川元春が侵攻してくると、同年9月21日、家臣の中村春続や森下道誉らは毛利家への服属を選び、豊国を鳥取城から追放した。
その後、豊国は禅高と名を改め、秀吉の御伽衆に召されたとされる(小坂博之『山名豊国』)。御伽衆は、主君に近侍し話し相手を務める役で、特殊な経験や豊富な知識を持ち、話術が巧みな者が選ばれた。多くの戦国大名は御伽衆を召し抱えており、その話によって、見聞を広げたという。
名族に生まれ、故実典礼に明るく、和歌、茶の湯、連歌などに造詣が深い豊国は、優れた御伽衆だったのだろう。のちに、徳川家康にも御伽衆の一人として仕えた。
慶長5年(1600)、53歳のとき、豊国は、会津の上杉景勝征伐へ向かう家康に従った。翌慶長6年(1601)には、家康から村岡(但馬国七美郡)6700石を与えられている。
豊国は茶会や連歌会に参加し、慶長17年(1612)、65歳のときには、駿府城で家康の将棋の相手もつとめている。67歳のときには、大坂冬の陣にも参戦した。
家康の死後は、家康の子・徳川秀忠の御伽衆の一人となっている。家康、秀忠の二代にわたる、御伽衆の地位を手に入れたのだ。
豊国は79歳の長寿を保ち、寛永3年(1626)10月7日、京都で没したと伝わる。 豊国の系統は山名氏嫡流とされ、子孫も江戸時代を通じて、村岡を治めた。維新後は村岡県知事、さらに男爵となっている(鳥取市教育委員会発行『城下町鳥取誕生四百年』)。豊国は知性や教養、話術で激動の時代を生き延び、子孫を存続させたのだ。
細川忠興は、永禄6年(1563)11月13日、京都一条にある細川邸で生まれた。
父は、当代一流の文化人・細川藤孝(幽斎)で、父子ともに、織田家に仕えた。 忠興は千利休の高弟で名茶人として知られるが、勇猛な武将でもあった。15歳のときの片岡城(奈良県)攻めで一番乗りを果たし、信長から自筆の感状を与えられている。
本能寺の変後、忠興は父から家督を譲られ、秀吉に仕えた。
関ケ原の戦いでは徳川方に与し、その功績により、豊前・豊後に約39万石を拝領。はじめ中津城、次いで小倉城を本拠とした。
元和6年(1620)、忠興は病のせいか、隠居を願った。同年閏12月には剃髪して、三斎宗立と号し、家督を三男の忠利に譲っている。忠興は58歳になっていた。
幸い病は快復し、忠興は83歳まで長寿を保つことになる。隠居後は茶会に招いたり招かれたりなど風流を楽しむ一方で、忠利に藩政や軍事などを指導した。小姓たちに行なわせた剣術の試合を見物するなど、武芸への興味も失っていなかったようである。 だが、忠興の晩年は辛いことも少なくなかった。
次男の細川興秋は、大坂の陣に豊臣方として参戦。忠興の忠義に免じて興秋は赦されたものの、忠興は切腹を命じている。
また、寛永18年(1641)3月に三男の忠利、正保2年(1645)閨5月に四男の立孝と、息子二人に先立たれてしまった。
53歳で授かった愛息・立孝の死去は、堪えたようである。忠興も病に伏し、同年の12月2日に、長い人生に幕を下ろした。
息絶える前に、忠興は「皆共が忠義、戦場が恋しきぞ」と口にしたという。 天下泰平となろうとも、忠興は最期の瞬間まで、戦場を駆け回る武将だったのだろうか。
【鷹橋忍(たかはし・しのぶ)】
昭和41年(1966)、神奈川県生まれ。洋の東西を問わず、古代史・中世史の文献について研究している。著書に『戦国武将の合戦術』『滅亡から読みとく日本史』などがある。
更新:08月01日 00:05