歴史街道 » 本誌関連記事 » 「始皇帝は非常にわがまま」と言われ激怒 学者460人を穴埋めにした天下の見せしめ

「始皇帝は非常にわがまま」と言われ激怒 学者460人を穴埋めにした天下の見せしめ

2025年06月27日 公開
2025年07月01日 更新

島崎晋(歴史作家)

始皇帝陵始皇帝陵

大ヒット漫画『キングダム』を読み、秦王政、のちの始皇帝に興味を抱いたという方も多いだろう。彼の時代を知るための貴重な史料が『史記』だ。その中には、始皇帝が即位後に断行した政策についても詳細に記されている。

本稿では歴史作家・島崎晋氏が、全130巻に及ぶ超大作『史記』原典のおもしろさを損なうことなく一冊にまとめた書籍『いっきに読める史記』より、始皇帝の政策「焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)」が行われた背景についてご紹介する。

※本稿は、島崎晋著『いっきに読める史記』(PHP文庫)より、内容を一部抜粋・編集したものです

 

始皇帝、刺客と盗賊に襲われる

27年、始皇帝は隴西(ろうせい)・北地を巡遊した。

28年、始皇帝は東方を巡遊し、泰山(たいざん)と梁父山(りょうほざん)で封禅(ほうぜん)の儀式をおこなった。ついで琅邪台(ろうやだい)に頌徳碑(しょうとくひ)を建てた。すると斉人の徐市(じょふつ)という者が参上して、つぎのような進言をおこなった。

「海の沖合に蓬萊(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛州(えいしゅう)という3つの神山があり、仙人が住んでおります。斎戒(さいかい)して童男童女を連れ、仙人を探したいと思います」

そこで始皇帝は、童男童女数千人を徐市に与え、仙人探しに行かせた。

始皇帝は彭城(ほうじょう)を通過したとき、斎戒して祈り、周の鼎(かなえ)を泗水(しすい)から引き上げようと、千人もの者を潜らせたが、見つけることができなかった。それから始皇帝は、南郡から武関(ぶかん)を通って咸陽(かんよう)に帰った。

29年、始皇帝は東方を巡遊したが、陽武(ようぶ)の博浪沙(はくろうさ)というところで、刺客に襲われた。この事件の主犯は張良(ちょうりょう)という男だった。

張良は韓の人で、祖父も父も韓の国で要職にあった。韓が秦に滅ぼされたとき、張良はまだ幼少で、官職についていなかった。家には300人もの奴僕(ぬぼく)がいた。張良は弟が死んでも埋葬もせず、家財すべてを投げ売り、その資金をもとに刺客を探し、秦王を殺して、韓の国の復讐をしようと考えた。

張良は淮陽(わいよう)に行って礼を学んだことがあった。東に出かけ倉海君(そうかいくん)に会い、そのつてで力自慢の士を手にいれた。また彼の武器として、重さ120斤の鉄槌をつくらせた。

始皇帝が東方巡遊にきたとき、いよいよ暗殺を実行することにした。襲撃地点は博浪沙。鉄槌をぶつけて、車ごと破壊する計画だった。しかし、鉄槌があたったのは、始皇帝が乗ったのとは別の車だった。

始皇帝は激怒し、10日間にわたり付近を大捜索させたが、ついに張良を捕らえることはできなかった。その後、始皇帝は、之罘山(しふざん)、琅邪を経由して、上党(じょうとう)から都に帰った。

30年のある夜、始皇帝はお忍びで、武士四人を伴い、咸陽の市街を歩いた。蘭池のほとりで盗賊に襲われたが、武士たちが奮戦して、始皇帝に怪我はなかった。それから20日間、関中で大捜索がおこなわれた。

 

李斯による焚書のすすめ

32年、始皇帝は碣石山(けっせきさん)に出かけ、燕人の盧生(ろせい)に仙人の羨門高(せんもんこう)を探させた。ついで韓終(かんしゅう)、侯公(こうこう)、石生(せきせい)らに命じて、仙人の不死の薬を探させた。

始皇帝は北辺をめぐり、上郡から都に帰った。そこへ盧生が、鬼神のお告げという、予言の書を手土産にやってきた。そこには、「秦を滅ぼす者は胡なり」と記されていた。そこで始皇帝は、将軍の蒙恬に命じ三十万の兵を率いて、北方の胡(東胡(とうこ)・林胡(りんこ)・楼煩(ろうはん))を討伐させた。

33年に、南方に桂林(けいりん)・象郡(しょうぐん)・南海(なんかい)の三郡を置いた。また西北方の匈奴(きょうど)を駆逐した。楡中(ゆちゅう)から黄河以東の地を陰山(いんざん)とし、そこに四十四県を置き、黄河のほとりに砦を築いた。

34年、斉出身の博士、淳于越(じゅんうえつ)が封建制を採用するよう進言した。これに対し丞相の李斯は次のように言って反対した。

「前代には、諸侯が並立して争い、遊説(ゆうぜい)の学者たちを優遇して招き寄せました。いまでは天下はすでに定まり、法令も皇帝お一人から出ております。黔首(けんしゅ/人民)は家にいて農工につとめ、士人は官職について法令を学ぶだけでよいのです。

ところが、いま学者たちは法令を手本とせず、古代の典籍を学んで当世を非難し、黔首を惑わせ混乱に陥らせております。彼らは法令がしかれたと聞くと、めいめい自分の学識にもとづいてこれを議論しております。宮廷に入っては公然と口外せずに心中で非難し、宮廷を出ると市中で議論し、多くの門下生を従えて誹謗ばかりしております。

そこで、わたくしはつぎのような処置をとるようお願いしたいのであります。史官の手になる秦の歴史記録以外はみな焼いてしまい、博士官が職務上保管しているもの以外で、この世に『詩経』『書経』および諸子百家の語録などの書物を所蔵している者があれば、みな郡の守(しゅ)・尉(い)のもとに出頭して差し出させ、あわせて焼いてしまうこと。

『詩経』『書経』のことを論じあう者がいれば、棄市(きし)の刑[殺したあと、死体を市場にさらす刑]に処すること。古代を基準にいまを非難する者には、一族皆殺しの族刑に処すること。命令が出て30日以内に焼かない者は、入れ墨をし徒刑囚(とけいしゅう)とすること。残してよいものは、医薬・卜筮(ぼくぜい)・農業の書物だけにすること。もし法令を学びたい者がいれば、官吏を師とすること。以上であります」

始皇帝はこの李斯の意見を裁可した。

 

天下の見せしめ

35年、始皇帝は道路を整備させ、九原(きゅうげん)から雲陽(うんよう)に至る道を開通させた。このとき始皇帝は思った。

「咸陽(かんよう)は人が多いのに、宮廷が小さい。周の文王は豊(ほう)に、武王は鎬(こう)に都した。豊と鎬のあいだこそ、帝王の都にふさわしいのではないか」

そこで朝宮を渭水(いすい)の南の上林苑(じょうりんえん)に営むことにした。こうしてまず前殿の工事がはじめられたが、それは東西500歩[秦代の一歩は1.35 メートル]、南北50丈、二階建てで、上には一万人が座れるという広大なものだった。完成してから名前がつけられることになっていたが、世人は土地の名から、それを阿房宮(あぼうきゅう)と呼んだ。

ときに宮刑や徒刑の囚人が70万あったが、彼らは分けて、阿房宮と驪山(りざん)の陵墓づくりにあたらせられた。

盧生(ろせい)はいまだ仙人を見つけられずにいた。その理由を盧生はつぎのように説明した。これは悪気が邪魔をしているからにちがいない。悪気を取り去るには、君主の居場所を人に知られないようにする必要があると。それからというもの、始皇帝は自分の居場所を臣下に知られないようつとめた。

あるとき、始皇帝は高みから李斯の行列を見て、お供の車や馬が多いのに不快感をあらわにした。宦官のなかに、これを李斯に告げる者があったので、李斯はお供の数を減らすようになった。

すると始皇帝は、「これは宦官のなかにわしの言葉を漏らす者があるからだ」と怒って調べさせたが、誰も白状する者がなかった。そこで始皇帝は、当時かたわらにいた宦官全員を捕らえ、皆殺しにした。

このような状況をみて、侯生(こうせい)と盧生はひそかに語りあった。

「始皇帝の人となりは、天性傲慢無情で、非常にわがままだ。諸侯から身を興して天下をあわせ、意を得てほしいままにし、歴史上、自分よりすぐれた者はいないと自惚れている。だから獄吏(ごくり)が信任を得ているんだ。

博士は七十人もいるが、数がいるだけで、特別何も任されていない。丞相や諸大臣もみな皇帝の決裁した命令を奉じて実行するのみで、上に意見をすることはない。主上は刑殺をもって民を脅すのを楽しみとし、天下の者は罪を恐れ、禄を惜しんで、あえて忠を尽くす者はいない。このため主上はみずからの過ちを知ることなく日々驕り、臣下は恐れてひれ伏し、ただ自分が罰せられないことだけを願っている。

秦の法では、方士(ほうし)[方術をおこなう者のこと]は霊験[不思議で測り知れない力のあらわれ]がないとわかれば即座に殺される。しかも天の星の気をみる者は300人もいるというのに、みなりっぱな士でありながら、怒りを買うのを恐れるあまりへつらうばかりで、誰もその過ちを直言する者がいない」

二人は示し合わせて、逃げだしてしまった。

それを知るや、始皇帝は激怒した。怒りの矛先は咸陽にいる学者たちに向けられた。始皇帝は、「妖言(ようげん)をもって黔首(けんしゅ)[人民]を惑わしている者がいる」として、学者たちを厳しく取り調べさせた。

彼らは互いに罪のなすりあいをするばかりだったので、始皇帝は禁令を犯した者460余人をみな穴埋めにし、天下への見せしめとした。これより法の適用が厳しくなり、辺境に流される者が急増した。

始皇帝の長子の扶蘇(ふそ)が諫言をした。

「天下は平定されたばかりで、遠方の黔首はまだ帰服せず、学者はみな孔子の教えを奉じています。いま主上は法を重んじて彼らを罰せられておりますが、わたくしは、これでは天下が乱れるのではないかと思います。どうかご明察をお願いいたします」

始皇帝は怒って、扶蘇を北方上の上郡にやり、蒙恬(もうてん)に監督をさせた。

 

いっきに読める史記『いっきに読める史記』(PHP文庫)

 

歴史街道の詳細情報

関連記事

編集部のおすすめ

「秦王政を討て!」のちの始皇帝を襲った、刺客・荊軻の恐るべき暗殺計画

島崎晋(歴史作家)

キングダムの時代を書き残した『史記』が別格な理由は? 司馬遷の革新的な筆致

島崎晋(歴史作家)

なぜ呂不韋は相国に登りつめた? 人質だった子楚を見出した「商人の才覚」

島崎晋(歴史作家)