八田家書院内部
大蔵経寺から車で5分、石和温泉駅から徒歩10分の距離に、八田家(はったけ)書院という歴史的建造物がある。
八田家は、武田家に仕える蔵前衆として年貢の収納や物資の輸送を担っていたが、武田家滅亡時には織田軍の兵火によって、屋敷を焼失してしまう。
しかしその翌年、家康から武田家時代からの田畑屋敷などを所有することを朱印状によって認められた。そのため、八田家の屋敷は御朱印屋敷と称されている。
現在に伝わる八田家書院は、慶長6年(1601)、家康から拝領した用材で造られたものだという。茅葺の屋根を持つ書院は、江戸時代のたたずまいを感じさせ、その場にいるだけで、落ち着いた気持ちにさせてくれる。
武田家が滅びたことで、八田家は大変な苦難に見舞われたが、この書院が建てられたころには、落ち着きを取り戻せたことだろう。この地は、江戸時代の書院建築を伝えるだけでなく、武田遺臣たちの苦難の道をも、偲ばせてくれるのだ。
もっとも、武田家滅亡によって苦難を味わったのは、武田家臣団だけではない。
八田家書院から車で20分、塩山駅からも車で20分ほどの距離に、武田信玄の菩提寺である恵林寺がある。
この寺も、武田家滅亡時に災厄に見舞われている。天正10年4月、信長に敵対していた者たちを匿ったことで、織田軍によって焼き討ちされているのだ。
それにより、住職の快川紹喜(かいせんじょうき)ら多くの人々が亡くなっただけでなく、寺も灰燼に帰した。
そしてこの寺の再建に一役買ったのが、家康だった。恵林寺で安置され、信玄が崇敬していた武田不動尊像が無事だと知った家康は、快川の弟子である末宗瑞曷(まっしゅうずいかつ)に寺の再建を命じたという。
末宗は織田軍による焼き討ちの際、快川の命によって逃げ、那須の雲巌寺(うんがんじ)に身を隠した後、駿河の臨済寺に身を寄せていた。そこで、家康に召し出されたのである。
恵林寺の再建のため、末宗は自らも鋸(のこぎり)を手に働いたといい、境内にある信玄公宝物館には、その鋸が展示されている。
境内には再建時の建造物である四脚門(しきゃくもん)も伝わっており、それらを眺めながら、恵林寺の再建に尽力した人々に想いを馳せてみるのもいいだろう。
恵林寺の四脚門
最後に紹介するのは、武田勝頼の菩提寺である景徳院(けいとくいん)だ。恵林寺からは車で40分、最寄りの甲斐大和駅からはバスで5分の距離にある。
織田軍が甲斐に侵攻してきた際、勝頼はここで最期を迎えた。寺の境内には、勝頼一家が自害した地とされる「生害石」や墓があり、名門・武田家の悲運がひしひしと伝わってくる。
そして、この寺を建立したのも家康だ。本能寺の変後に甲斐に入った家康は、勝頼を弔うために、勝頼に殉じた忠臣・小宮山内膳(ないぜん)の弟を住持に迎えて、寺を建立させたのである。
これは、家康にとっても、大きな政治的効果をもたらした。先ほどの恵林寺の再建と景徳院の建立を受け、甲斐の人々は家康に心を寄せるようになったのだ。
仮に、甲斐の人々が家康に味方しなければ、どうなっただろうか。おそらく、北条軍との戦いはもっと苦戦し、そうなれば、その後の天下取りへの道も変わっていたかもしれない。
とするならば、やはり甲斐は家康の天下取りを左右した地といえるのではないだろうか。家康は戦国最強と謳われた武田軍の遺臣を戦力に加えることで、さらなる飛躍をつかんだのである。
創建時の偉容を伝える景徳院の山門
更新:11月23日 00:05