古代の日本人は大陸の先進文明を遠ざけていた節がある――。彼らはなぜ、農耕や金属生産などのテクノロジーに対して拒絶反応を示したのか? 彼らが、大陸と行き来していた海人たちの情報から知った「文明の恐怖」とは?
※本稿は、関裕二 著『海洋の日本古代史』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです。
太古から日本列島人は、根本的なところで「中華」や「中国文明」を遠ざけていた気配がある。
不思議なのは、日本の中国文明に対する接し方だ。日本列島人は、中国文明を仰ぎ見つつも、すべてをそっくり受け入れようとはしなかった。
隋や唐で整った律令制度を、七世紀の政権はよく学び、死に物狂いで整備していったが、それでも「皇帝の絶大な権力」を、日本の天皇には当てはめなかった。ヤマト建国時から続けられてきた豪族(貴族)による合議制を守ったのだ。
それが太政官システムで、ここで決まった案件を天皇が追認し、文書にすることで、行政が動いた。同じ律令制度だが、ここに、大きな差がある。日本は中国の猿まねをすることはなかった。遣唐使船は多くの文物を日本に持ち帰ったが、日本人が必要と思うものだけを、取捨選択している。
縄文時代、列島人は稲作や農耕の存在をすでに知っていて、それでも積極的に取り入れようとしなかった可能性が高い。縄文人は狩猟採集を生業にしていた。
必要以上の獲物を捕らず、縄張りを守り、暮らしていたのだ。農耕を始めれば、人びとが争いはじめることを、縄文人は海人たちから聞いて、知っていたのではなかったか。
神話にスサノヲが最初、新羅に舞い下りたとある。ところがスサノヲはここに住みたくないと言い、「朝鮮半島には金属の宝があるが、日本には浮宝がなければいけない」と述べている。
「浮宝」は、船の材料となる樹木のことで、息子の五十猛神(いそたけるのかみ)とともに、植林をしている。「文明が興り森を失えば、どうなるか」を、スサノヲは朝鮮半島で見聞きしてきたのではなかったか。
神話だからといって笑殺できない。弥生時代後期からヤマト建国に至る歴史を反映していると思う。中国は大混乱の時代で、後漢から『三国志』の時代に突入しようとしていた。
魏・呉・蜀の覇権争いは、物語としては面白いが、状況は悲惨だった。天候不順と飢餓と戦乱で、人口が最盛期の10分の1に激減した。実態は、戸籍上の人口激減だが、それでも多くの人が亡くなり、逃亡し、流民が大量発生していたのだ。まさに、地獄絵巻だっただろう。
この「文明」の惨憺たる姿を見聞きしたスサノヲは、「日本は文明を否定するべきではないか」と考えたのではなかったか。冶金(やきん)と農耕が文明を生み、文明は森を消費する。
遊牧民は豊穣の大地を追われた人たちで、栄える文明の富と土地を、虎視眈々と狙い続けた。少数の騎馬だけでも、森を失った文明を略奪することができたのだ。
森を失えば、天候は荒れ、食料生産は滞り、異民族が流れ込み、混乱が巻き起こり、いずれ文明は衰退する。縄文的で多神教的なスサノヲの感性は、その情景をおぞましく感じたのだろう。
稲作文化が関東に広まるまで数百年の年月を要したのも、「農耕とともに戦争がやってくる」ことを、列島人はよく知っていたからではないか。
そして、経験知がなければ容易に渡ることのできない海が、彼我の間に横たわっていたからこそ、列島人は悠長に、文明を拒むことができたのではなかったか。
更新:12月04日 00:05