近年、考古学者の一部から、不思議な仮説が提出されている。弥生時代が終わるヤマト建国の直前、畿内南部(ヤマト周辺)の人びとは、「力と富を持たないことを、甘んじて受け入れていたのではないか」というのである。
設楽博己は、その根拠を掲げている(『考古学による日本歴史9』雄山閣出版)。
(1)弥生時代は金属器の時代だが、一方で旧石器時代から続く石器を道具に使っていた。弥生時代のヤマト周辺に成立していた石器流通の「ゆるやかなネットワーク」が力を発揮していたのではないか
(2)青銅器も入手可能だったが、あえて石製短剣( 二上山サヌカイト)を使用した
この時代の最先端地域であった北部九州は、資源を集積し、再分配することによって権威を高め、階級社会を構築していたが、畿内の諸集団がとっていたのは独占的な流通ではなく、互恵的関係だったというのだ。「縄文時代の社会システムを維持していた」というのである。
寺前直人も、近畿南部は、強い王を生まないために銅鐸や石製短剣を守り、それまでの社会秩序を維持することに成功していて、文明に抗っていたと指摘した。
弥生時代後期には、権力集約型の社会統合は、近畿南部を避けるように東に拡大し、ヤマト周辺は富や鉄器の過疎地帯になりはてていたという。権力や文明は、排除されていた可能性が出てきたのである。
寺前直人は、弥生時代後期の北部九州や日本海沿岸部で、稀少な金属製武器を権力者(首・王)が独占したが、ヤマト周辺では、石製武器を大量に生産し、一般成員に広く普及させ、強い王の発生を嫌ったこと、ヤマト周辺の銅鐸や石製短剣を「文明に抗う社会装置」と指摘し、北部九州など西方世界に対抗し、それまで継承されてきた社会秩序を維持することに成功したというのである。
丹波から近江、東海地方が、富を蓄えていく中で、ヤマトが、権力の空白地帯だったと指摘した。その上で、「一時的とはいえ近畿地方南部を中心とした列島中央部の人びとは、大陸・半島からもたらされた魅力的な文明的価値体系に抗することに成功した」と、結論づけている(『文明に抗した弥生の人びと』吉川弘文館)。
日本列島の海人たちは、朝鮮半島との間を頻繁に往き来していた。「魏志倭人伝」は、農地のない対馬の人びとが南北に市糴(交易)して生活していたと記録していた。
だから、半島や大陸の情報は、つねに手に入れ、見聞きしていただろうし、もともと渡来人とは、戦乱や飢餓から逃れて来た人びとなのだから、彼らは列島人に、「さんざんな目に遭ってきた」と、教えただろう。
「文明など、ろくなものではない」と、列島人に話して聞かせただろう。それ以上に、縄文の文化、多神教世界の住民は、一神教的な物質文明に恐怖し、抵抗したにちがいないのである。
更新:12月04日 00:05