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安政の大獄から桜田門外の変…明治維新の裏で息づく徳川斉昭の理念

2021年05月02日 公開
2022年07月05日 更新

マイケル・ソントン(イェール大学東アジア研究所博士研究員)

 

日本をいかに独立国家たらしめるか

桜田門外の変の翌日、謹慎中の水戸城で事件を知った斉昭は、大いに驚き、ショックを受けた。

「大老不宜にもいたせ、御役重く、第一将軍家にて宜敷と思召候」

つまり、井伊がどれだけ悪いにせよ、将軍がよいと思って任命した人物だということである。その井伊への攻撃は、幕府への攻撃につながると恐れ、「外様大名か外国に天下を渡すつもりか」と藩主の慶篤に警告した斉昭は、即座に彦根藩との関係を修復するように促した。

斉昭は実行者たちから自身をできるだけ遠ざけ、藩に罪が及ぶのを避けようと努めたが、彼の立場は深い矛盾をはらんでいた。

会沢正志斎が主張したように、斉昭は攻撃的な対外政策と包括的な国内改革によって、幕府を再生強化しようと望んでいた。ところが、斉昭の好戦的な言葉や断固たる批評、そして国防強化を訴える言動すべてが、水戸の尊王攘夷派の若き下級武士たちを過激にさせていた。

こうした考え方がいったん根を下ろせば、斉昭自身が制御することはできない。彼は桜田門外の変の浪士たちを非難し、自身もその影響に怯えたが、その発火点になった責任から逃れることはできなかった。

それから数カ月後、斉昭は水戸城内の月見の宴のさなかに亡くなった。心臓発作と思われる。遺骸は、歴代藩主と家族が眠る水戸藩の墓所・瑞龍山に儒式で葬られた。

彼の没後、水戸藩が政治の表舞台で大きな役割を果たすことはなくなった。藩は尊王攘夷派の鎮派と激派、そして保守門閥派の間の政治抗争に埋没し、間もなく抗争は内戦に発展した。

幕府はもはや水戸藩を信頼せず、厳しい取り締まりと処罰により、尊王攘夷派の境遇は厳しさを増した。先述の外国公使館襲撃事件や坂下門外の変など、襲撃事件の続発の一因は、こうした境遇の厳しさにもある。

全国レベルでは、斉昭周辺で形成された大名連合が維持され、彼の政治改革や軍備増強のビジョンを追求し続けていたが、外国の脅威が強まると、朝廷と大名の幕府への信頼が弱まり、幕藩体制の正当性が揺らいだ。

斉昭は、生前も没後も争いの種であり続けた。彼の反対勢力にとって、斉昭は自分勝手で高慢で頑固な存在であり、悪化する派閥主義と内戦の元凶だとみなされた。

一方、斉昭の支持者は、その道徳的信念と日本を再建するための大胆な行動、それを支える強い意志を称賛した。そして彼らは、幕府を強化しようと支援し続けた斉昭の熱意を称え、その努力をないがしろにした、腐敗した幕府と水戸藩内の保守層を痛烈に批判した。

これら斉昭支持者たちに等しくある熱は、斉昭のカリスマ性と力強さを反映するものであり、日本をいかに独立した統一国家たらしめるのかという問題における、彼のビジョンの急進性を示している。

日本という国は結局、長期的には斉昭のビジョンの通りに進んだといえる。しかし明治維新以後、水戸藩の存在感の相対的低下とともに、斉昭の存在は忘れ去られていった。

そうしたなかにあっても、斉昭を慕う人々の手により、明治2年(1869)斉昭は従一位を贈位され、水戸の偕楽園の傍に創建された常磐神社に、押健男国之御楯命という神号で、神として祀られることとなった。現在でも彼は「烈公さん」「斉昭公」と呼ばれ、水戸の人々の崇敬を集めている存在である。

 

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